小説スペイン太平洋航路
3、応仁の乱と南海路
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出典おとろえていく室町幕府と応仁の乱 (coocan.jp) 「真如堂縁起」より。真正極楽寺蔵
海部氏は、細川氏に加勢したことによって、京都で活発な活動を展開していた。
しかしそれでも、大勢では、全く人目を引かずにやって来た。
ところが1468年、突然、その本拠地が、脚光を浴びることになった。
幕府や細川氏が中国に派遣した遣明船が、急遽、太平洋側の航路(南海路)を取ったためである。
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1467年、応仁の乱勃発。
博多商人と結んだ中国地方の大内氏が、遣明船の帰途、瀬戸内海の航行をはばんだ。
大内船は瀬戸内海の通行を許されたが、幕府船・細川船は、遠路はるばる、
南九州・土佐を回って帰るはめになった。
これは未開拓の航路を、危険をかいくぐりながらの航海だった。
古くからの友邦、阿波海部の援護が頼める海域に到達した頃には、
両船とも、操船が怪しくなるほどの傷み方だった。
かくして幕府船・細川船は、積荷をすべて海部で積み替えて、ようよう堺に舞い戻ったのであった。
(勘合貿易に見る瀬戸内海事情と南海路)
kanngouboueki.nannkairo.html
この時から、幕府と細川氏にとって、海部の港は、
急速に秘密基地の様相を帯びてきた。
それまでは、海部氏の本拠地が、実際に余所者の目に触れることは、
滅多になかった。
しかし幕府関係者・細川氏関係者、そして堺商人の関係者までもが、
海部氏の本拠地を垣間見ることになった。
海部は、刀剣の産地でもあった。
戦国時代末期までに刀工66人を輩出し、その刀剣は海部刀と呼ばれる。
遣明船貿易で利潤が大きかった重要産物は、刀剣だったと言われている。
「海部刀」
出典:阿波海南文化村博物館について | 海陽町 (kaiyo.lg.jp)
これまでの経緯からすれば、遣明船に乗せられた海部刀も、少なくはないだろう。
(遣明船貿易の日本刀)
kennminnsenn.bouekino.nihonntou.html
その海部の本拠地が、こんなところにあるなんて。
皆が目を丸くしてしまった。
「この度の大内氏の所業はひどいものであった。
しかしそのおかげで、南の海の航路というものがある、ということが、
しっかりわかったぞ。」
「琉球船は毎年のように来航しているが、
古老の話では、それは60年以上も前からだそうだ。 (応仁の乱「以前」の琉球貿易)
ouninnnorannizennnoryuukyuuboueki.html
南海路を取れば、琉球の動きも、知ることができる。
今回の迂回でも、琉球人には、随分世話になった。
九州南部の海は、琉球人には自分の庭と同じだ。
そして彼らは、はるか南のシャム(タイ)やマラッカ、<ベトナム>、
まで足を伸ばして、明に交易品を運んでいるのだ。
明はできた頃(1368年頃)に鎖国政策を取った。
琉球が活躍しているのはその頃からのことだ。
つまりは琉球人が、明の貿易の肩代わりをしていたようなものだ。
堺から南九州へまわって琉球と結べば良い。
明以外の、南の国々と交易する機会があるだろう。」
「そうだ。そのためには、まずは間近な海部の港が、非常に便利だ。」
南海路は、これを皮切りに、その後度々、遣明船の航路として使われた。
その都度、堺の関係者は琉球人との情報交換に余念なく、
南方方面との交易情報を収集し続けた。
南方方面への関心は、南海路沿いの一部の人々の間で、
次第に恒常的なものとなった。もちろん海部も例外ではない。
そしてついには自分たちで船を用意し、琉球人を水先案内人として、
南方へ乗り出して行く者が現れた。
刀剣は、南方でもよく売れる商品だった。武器は南方でも必需品だったのだ。
戦乱の世を乗り切るために、武士たちは資金の調達に躍起だった。
はるばるマラッカまで出かけ、実演販売して住民を怖れさせ、
ゴーレス(刀剣)とあだ名されたのは、こうした武士たちである。
(「ゴーレス人に関するコメンタリオスの記述」 大航海時代叢書 トメ・ピレス『東方諸国記』より)
go-resu.komenntariosu.daikoukaijidaisousyo.html