2、太平洋航路と阿波海部の海運      (20210904)

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太平洋を、日本から日の出の方向に向かって航海するには、太平洋側の港が必要である。

ポルトガルとスペインは、東と西に分かれて世界の海を半周し、
東アジアの南に到達して遭遇し、そこから北上してきた。

特にスペインは、本国からの出先としてメキシコに拠点を築き、
マゼランの寄港によってフィリピンに足がかりを得て、

太平洋の両端に足がかりを得たものだから、
フィリピンから、何としてもメキシコに帰りたかった。

そのためには東に向かって航海し、太平洋を横断しなければならない。
しかしフィリピン近海では、東に向かうと、風も海流も逆向きだった。

スペインは太平洋横断航路を開拓するために、4回の探検艦隊を繰り出し、
その4回とも、風と海流に押し返されて失敗した。

しかし4回目の失敗は、成功の始まりだった。
東の風を探す、その徒労とも思える努力に、日本の南海路の戦国領主たちが、
興味を持ったのだ。

そもそも交易による利益に強い関心があった領主たちは、
南蛮人たちの航海術に興味を持ち、世界図というものに興味を持った。

そして、自分たちもやってみようと思い始めたのだ。

すでに出来上がっていた東アジアの交易のネットワークが、
フランシスコ・ザビエルと第4回探検隊員の一人を、日本に呼び寄せた。    

そして戦国領主たち、そして交易商人たちの、太平洋航路開拓に向けての協力が始まった。



この頃、近畿では、三好長慶を中心とする阿波の勢力が盛んだった。
信長が上洛する、その前の時代の話である。

室町幕府の中枢足利氏を支えた細川氏。その細川氏を支えた勢力に阿波勢がいた。

阿波勢の筆頭である三好長慶は一時、細川氏をしのぐほどの勢力を持った。
そして三好長慶とともにあった阿波の国人の一人に、海部友光がいた。


海部友光の領地は四国の太平洋側である。
阿波の南端、「海部」という土地である。(現「徳島県海部郡海陽町」)    
                                                 
発掘報告によれば、3世紀は全国的に、海上ルートによる遠方への移動が確認される。

「海部」も、その例にもれない。3世紀のその頃から、
海部は、徳島ー高知ルートの開発に伴う、重要な中継地点になった。

1445年になると、僻地の海部にとっては非常に重要な史料が残されることになった。
『兵庫北関入船納帳』である。

      教科書に載っている「海部」     クリック→  


すでにそれ以前、室町幕府の京都でも、海部氏が活発な活動をしていたことは、
他の文書でも伺い知ることができる。   *他の文書

しかし京都と海部は、あまりにも遠い。
その疑問を払拭する史料が、『兵庫北関入船納帳』である。

この納帳に見られる海運が、海部の人々の遠距離活動の実態を示すものである。

そして、この地の領主・海部氏が、太平洋横断航路開拓に、大きく貢献することになるのである。