小説スペイン太平洋航路

3、南北朝時代の海部氏

                          トップへ戻る

      古墳時代以降の「海部のトピックス」を簡単に並べて置こう。
      
      10世紀には祭壇墓の祭りはすたれていた。
      しかし新たにできた神社は、京政権の延喜式に記録された。(927年)

      紀貫之の『土佐日記』が書かれたのは、その少し後の935年である。

      紀貫之は、土佐・奈半利でしばらく足止めの後、室戸岬を回り、太平洋側に出て一泊する。

      どこで泊まったかは論争のあるところである。
      『土佐日記』では、その泊まりの後、海賊が横行する海を、
      夜間の決死航行で切り抜けたことになっているのだから。

      だが、すでに中継地として確立し、元ヤマトに属する警備者がいたところは、
      比較的安全なところだったのではないか、という推測のみに留めよう。

      10世紀に、海部が中央政権から離反していたという話はない。


      1290年代には、後に曹洞宗大本山総持寺の開祖となる、
      瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)禅師がやってくる。
                          (総持寺は現在、横浜の鶴見にある)

      海部郡司の招請でやってきた禅師は、城満寺を開山。
      これは禅寺としては四国最古である。


      1300年頃、江戸時代にできた本によれば、
      海部刀が作られ始めたのはこの頃とされている。

      江戸時代の本だから、どの程度信用できるかはわからない。
      しかし、武器なら3世紀の探検の旅の始めから必要だったはずである。

794年に始まり、400年にわたった平安時代の後に、
1192年に源頼朝が鎌倉幕府を起こして、武家政権が誕生した。

しかし1274年、1281年と、二度にわたって元が大軍で攻めてきて(元寇、文永・弘安の役)、
その影響で鎌倉幕府の力が衰えた。

それを見た後醍醐天皇は、政治の実権を取り戻そうとし、1333年、鎌倉幕府は滅んだ。

建武の新政が始まったが、新政に不満を持つ武士たちが、
後醍醐天皇とは別の朝廷(北朝)を立てた。
ここに南北朝時代が始まることとなった(1336年)。

南北朝時代
この時代に、足利氏や細川氏と結びつく形で、阿波海部氏の名前が、史料に登場し始める。

  794年 平安京遷都・平安時代の始まり  
 1192年  鎌倉幕府の始まり
 1274年  元寇・文永の役
 1281年  元寇・弘安の役
 1333年  鎌倉幕府の滅亡
 1334年  建武の新政
 1336年  南北朝時代


1336年足利尊氏は、細川和氏細川顕氏(あきうじ)に命じて、
四国の勢力を集めようとした。(『太平記』)
こうして四国勢は、室町幕府成立に参画することになった。

海部氏も、足利・細川勢に与して、その四国勢の中にあった。

阿波の奥地ながら、海部勢は操船の巧みな戦力であり、非常に優れた刀を持っていた。

彼らの刀剣へのこだわりは、遠い祖先以来の伝統的な感覚だった。
武器なくして未知の土地へ立ち入ることはできない。
早くから刀工を抱えていた。

そしてそれから、史料としては突然の中央政治登場となる。

1352年2月25日に発された、細川顕氏(あきうじ)の命令によって、
観応の擾乱のさ中、海部氏は京都警護に当たっていた。 

    それは、現在国宝指定「東寺百合文書」に、
    現物の細川顕氏の命令書が残っているから確定している。

    活字としては『大日本史料6篇』で確認できる。図書館で見ることができる。
    本によって、騒乱の日時がいろいろなようだが、
    根本史料に依拠したものの方が正確だろう。 (大日本史料・細川顕氏の海部氏に対する命令書)

以下は当時の情勢についての概略である。

 南北朝の対立の中、鎌倉では足利尊氏・足利直義の兄弟が戦っていた。
 京都を守っていたのは、足利尊氏の息子の義詮である。(義詮は後の二代将軍)
 
 しかしここで、南朝が京に対して、進軍の様子を見せた。
 不安な義詮は、南朝に対して和睦を申し入れる。

 26日、鎌倉では、争っていた兄弟の内、尊氏の弟の足利直義が急死した。

 近畿では、南朝の後村上天皇が、足利義詮の守る京へ向かい始めた。
 しかし、和睦にしては、京に近づく南朝の軍勢は非常に多かった。

 合戦の噂が飛び交った。情勢は非常に流動的だった。
 後村上天皇は、和睦のために京都に向かってくるのか、それとも戦闘のためか。
 どちらのようにも見えるのだ。

 その前日に、海部氏に対して、南朝が進む方向にある久世荘に行って、
 治安維持に当たるように、という命令が出ているのである。

 結局、南朝軍は京都に攻め入り、
 足利義詮を追い払い、北朝方の3上皇と親王を、南朝の根拠地へと拉致する。

 大事件である。

 細川頼春は戦死。細川顕氏は落ち伸びた、
 足利義詮も近江まで落ち伸びた。

『太平記』では30巻あたりの話に該当する。
海部氏は出てこないが、細川顕氏が著名人として登場する。

この時戦死した細川頼春は、阿波守となった細川和氏の弟である。
和氏が死んだ後、細川顕氏と協力関係にあった。

細川顕氏の方は、海部氏に救出されて落ち延びた。          
                         (こういう所は全くの作り話だから気をつける)
細川氏と海部氏は、共に戦うことによって絆を深くした。


以後、細川氏との縁で、海部氏は、京都の幕府高官の目に触れる所に、
何度か登場する。

例えば『群書類従24』に納められている『相国寺供養記』。(図書館で見ることができる)
1392年のことである。

相国寺は、金閣寺・銀閣寺を抱える幕府の寺である。

その落慶供養の記録に、管領細川頼元に随従した武士たちの中に、
月毛の馬に乗った海部三郎経清が出てくる。

三好一族(旧姓小笠原)二人の、次の位置に出てくる。

相国寺は京都五山の一つであり、室町幕府に隣接した寺域を持つ。
いわば幕府と一体の寺院である。

当日の供養には将軍足利義満をはじめとする公家・武士が列席し、
寺内外は立錐の余地がないほどだった。とある。

これは1352年の東寺百合文書から40年後。
この2ヵ月後には、南北朝が合体する。これも重要な時期である。


次は1420年『満済准后日記』
8月3日に 「阿波守護 細川義之の若党「カイフト云者」が登場する。
海部氏に間違いない。

これは活字としては『続群書類従・補遺1』で確認できる。(図書館で見ることができる)

満済は醍醐寺座主。当時の仏教界の最高の地位を占めた。     

別名、「黒衣の宰相」とも呼ばれ、
義満・義持・義教と、3代の足利将軍の護持僧として尊崇されるとともに、
義持・義教将軍の政治顧問でもあった。

幕政の枢機に参画し、政事・外交に献策するところが多かった。

その日記は、1411年(応永18)、13~22、23~35(応永30~永享7)にわたる。
自筆本。記述は詳細・正確。
当時の幕政・外交および社会情勢・文化を知る上の根本史料とされる。

このように海部氏は、幕府の上層部に、その存在を知られていたのである。

根本史料があるのだから間違いない。
しかしこの海部氏の中央政権との関わりは、地元には知らされることがなかった。

そして現代の有力著述家の手によって、貶(おとし)められ、無視され、軽視されている。

それはあたかも、それぞれの著述家に対して、海部貶めに加担するように、
と、要請でもあったかのごとくである。


ともあれ、こういう京都出張の間に海運力は増し、海部の豊富な木材は、重要産業となってくる。

1445年に兵庫港(現在の神戸港付近)で作られた、各地の船の、出入りの記録がある。

「兵庫北関入船納帖」というのだが、
それには、四国太平洋側でダントツ1位の56隻の入港数が記録されている。 

積荷は、製材された木材と出てくる。

製材となると、大きな横引きのノコギリが想像されるのだが、
これが当時は非常に貴重なものだった。
薄くて丈夫な鉄材を作って加工するのが難しかったのだ。

大型のノコギリが大陸から入ってきたのは室町時代とされる。

木の繊維を縦に引く小さなノコギリなら古墳時代からあった。
しかし、板を作るには、木にクサビを打ち込んで割る、という方法しかなかった。

加工木材が主力商品だったのなら、当地での製材技術も売り物の一つだったのだろうか。
海部刀生産の鍛冶技術でノコギリが作られて、それで製材されていたように見える。 
                              *1445年、阿波・土佐の主要港

この1445年の兵庫港の記録は、瀬戸内海の海上交通ばかりが取り上げられる。

太平洋側の海部は、消されたり無視されたりして、不当な扱いを受けているが、
本物の記録には、太平洋側の海部船の活発な活動が、
しっかり記録されているのである。

              *ここで注意していただきたいのは、皇太子殿下のご専門が中世海運で、
              卒論もズバリ兵庫北関入船納帖に関するものだということだ。

              皇太子殿下の目に触れてはいけないとばかりの、
              削除、おとしめ、無視、軽視の多いことには、
              公正と事実探求という意味で、極めて注意する必要がある。



南北朝から室町時代にかけての海部関連重要史料 (『海南町史』p187~)

 1352年 「東寺百合文書」 (現物・国宝指定、活字翻刻『大日本史料6篇』)
 1392年 『相国寺供養記』 『群書類従24』
 1420年  『満済准后日記』(『続群書類従・補遺1』
 1445年  「兵庫北関入船納帖」