小説スペイン太平洋航路

16、ザビエルとヤジロー

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                      * ザビエルを日本に連れてきた日本人男性の名前は、
                         アンジローとヤジローという、二通りある。

                         ここではヤジローとしてあるが、
                         研究者によってはアンジローなので、二通り覚えて置く必要がある。


ヤジローの日本出国

 ハルマヘラ島の戦いが1545年11月のことだった。
 アルヴァレスがマラッカで、ザビエルにビリャロボスの書簡を渡したのが、
 1545年末から1546年初頭。
 ザビエルがビリャロボス艦隊と共にいたのが、1546年3月から5月である。

 アルヴァレスは、マラッカでザビエルに対し日本探索を要請し、
 アンボンでザビエルとビリャロボスの出会いを確認した後、
 すぐさま、再び日本に向かった。

 ビリャロボス艦隊とザビエルをつなぎ、ザビエルの承知を、
 日本側に伝えるためである。

 次は、日本側からの迎えの要員を、ポルトガル側に知られることなく、
 ザビエルの所まで、送り届けなければならない。

 日本側からの迎えの要員というのは、ポルトガル語を話し、
 ポルトガル人もよく知っている、交易担当者以外には考えられない。

 怪しまれずに出国する策として考えられたのが、
 ヤジロー殺人罪のでっちあげだった。

 どのみち、そのようなことをあれこれ詮索するほど、
 ポルトガル商人が長期に日本に滞在しているわけではないので、
 多分うまくいくだろう。

 というわけで、まず最初に、鹿児島にいたポルトガル商人アルヴァロ・ヴァスに、
 ヤジローが、殺人を犯して国外へ逃げなければならない云々と、
 相談することにした。

 出帆にまだ時間があるヴァスから、別の船の船長に紹介状をもらう。
 これで、ヴァス経由のポルトガル側への、ヤジロー出国承認を取り付けたことになる。

 それから、間違ってアルヴァレスの船に乗り込んだことにして、
 アルヴァレスの船でマラッカへ向かった。

 この、ヤジローがアルヴァレスの船で薩摩を出発したのが、
 1547年1月説と、1546年の秋or初冬という二説がある。
                (岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』吉川弘文館p43)

 船の中で、アルヴァレスから、キリスト教の宣教に参加する形にした方が良い、
 と、彼の計画を聞かされて、その気になる。
    (岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』吉川弘文館
          p27「アンジロー書簡」。
             「アルヴァレスから、キリスト教徒とはどのようなことかを教わったので、
             洗礼を受けようという気持ちが多少起こってきました。」

             この部分は、岸野氏の原典史料調査の結果では、途中で削除されて、
             岸野氏の研究まで、日本では、全く知られていなかった部分なのである。
                               ( 重大な削除箇所・上掲書p36)

             キリスト教関係者が、どうしても知られたくなかった部分、
             という意味で重大だろう。

             秘密調査官(要するにスパイ)に勧められたらしく思われるようでは、
             布教という聖なる活動に傷が付く、ということかもしれない。


 しかしマラッカではザビエルに会えなかった。
 ザビエルはモルッカ諸島へ出かけていたのだ。
            
             1546年2月から1547年4月まで、1年余の間、
             ザビエルはモルッカ諸島を巡回して布教活動をしていた。(上掲書p65)

             1547年1月テルナテ島、4月アンボン島などを経て、
             7月初旬にマラッカに帰着。(上掲書p67)

             モルッカでのビリャロボス艦隊の体験を、確認していたような格好である。

             ヤジローは、ザビエルがいない間に、一度マラッカへやってきて、
             会えずに引き返した。
            

 アルヴァレスとも別行動だったヤジローたちは、
 一度は中国経由で帰国しようとしたが、
 日本を目の前にしながら、嵐で中国まで戻されてしまった。
    
 そこで、最初に相談したポルトガル人アルヴァロ・ヴァスに出会った。
 彼の船で、マラッカまで戻ることになった。

 ここまでポルトガル人が好意的だったのは、
 ポルトガル人にとっても、カソリックの布教拡大は、国王の方針だったからだろう。 

 洗礼や宣教を目指す、ポルトガル語を話す日本人と言うのは、
 極めて貴重な人材だったはずである。

 マラッカでアルヴァレスに会って、
 そこから、丘の聖母教会にいるザビエルのもとへ、直行することになった。
 それが1547年12月のことである。


ザビエルとヤジロー

1547年12月のマラッカ。
ザビエルが、アンボンでビリャロボスを看取ってから、約1年半後のことである。

ザビエルはその時、丘の聖母教会で結婚式を執り行っていた。
そこへ、アルヴァレスに伴われて、日本人ヤジローがやってきた。

式も終盤、突然、教会の扉が開いて、アルヴァレスが入ってくるのが見えた。
二人の東洋人を連れているのも見えた。

いでたちは西洋人の格好である。
しかし、マラッカ近辺では見たことのない顔立ちだった。

小柄ながら、ガッチリした均整のとれた体つき。
引き締まった隙のない表情、隙のない歩き方。
これもマラッカ近辺では見たことがない。

おまけに、腰には噂の二本差しである。
間違いない。これが日本人に違いない。

ようやく式が一通り終わって、ザビエルと3人は双方から走り寄った。

待ちに待った、日本からの迎えが来たのだ。
ザビエルは飛び上がらんばかりに喜び、ヤジローを抱きしめた。

           (岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』吉川弘文館p70。

           (アンジロー書簡には「抱擁した」と書いてある。別にp29にも。
            p71には別の神父の表現あり。
            「彼がまるで天から自分のところへ来たようにうれしがった。」

            とにかく、普通でないと思えるような喜びようだった、ように読めるのだ。
            殺人を犯して罪に悩む男を受け入れるのが、そんなにうれしいだろうか?
            別の意味を読むのが正しいのではないだろうか。).           

            ザビエルに関しては、キリスト教史から見た研究ばかりのようだ。
            スペイン太平洋航路開拓史から見た研究はない。
            ここは私の想像と違う、という意味で、比較のための参考文献である。)


ヤジローは、島津家家臣、交易担当の池端弥次郎と名乗った。
彼はまた、同じく交易担当の、自分の部下を連れていた。

両人とも、剣の使い手だった。
特にヤジローは、居あい抜きの若手第一人者だった。

島津氏は、ビリャロボス艦隊の探検を知ったことで、ポルトガル以外に、
さらにスペインとも交易する機会を手にしようと言うのだ。

島津氏は、まだ領国内の統一に苦しんでいた。
統一を有利に運ぶためにも、スペインとの提携をも深めたい。
工作の裏には、そういう事情もあった。

ヤジローはザビエルに言った。

  主君の命によって、スペインの太平洋航路の寄港地開設について、
  事前準備のために、ザビエル様を薩摩へお招きしたい。

  ザビエル様の身辺警護を仰せつかった。
  必ずや無事に日本までお連れ申す。

それに対してザビエルは言った。

  確かに私は、スペイン太平洋航路開拓の秘密交渉を請け負った。
  お招きに感謝する。

  しかし私は本来、世界にキリスト教を広める仕事をしている者。
  布教を目的として日本に渡らなければならない。

  アルヴァレス殿の計画を聞かれたと思うけれど、
  是非ともキリスト教に関心を持っていただいて、
  布教の手助けをしていただきたい。

  そうしないと、ポルトガル人にも日本人にも、怪しまれるであろう。

  表向きは布教を目的として、堂々と日本各地を巡って、
  日本の実情を本国に報告したい。

  何もわからないまま日本と取引するような危険は、冒すことはできない。

それからザビエルが延々と展開する信仰についての話は、ヤジローたちをたじろがせた。

アルヴァレスの話で、そのつもりで来たのではあるが、
これは半端なことでは対応できないと、腹をくくらざるを得なかった。

ザビエルの布教に対する熱意は、ヤジローたちの理解をはるかに超えていた。

それでは、と、ヤジローは、西洋世界の根幹だと言う、その宗教に、
取り組んでみることにした。

アルヴァレスから、キリスト教の話は聞きかじっていたものの、
それを納得するのは大変だった。

ヤジローは、この西洋の宗教を理解して日本の人々に紹介するのは、
自分の大きな仕事だと感じた。

西洋世界の根幹にある宗教なら、勉強のし甲斐があると言うものである。
相手が何を考えているのか、わかれば交渉もやりやすいだろう。

いずれにせよ、自分がやらなければ、日本での交渉の安全に関わる。
それなら、できるだけ勉強して行こう。

ヤジローは、知的好奇心でキリスト教に取り組んだ。
ザビエルはその熱心さに驚いた。

後世の歴史では、ヤジローは、人を殺めてマラッカへ逃亡し、
悔恨の念にかられてキリスト教に改宗した、ことになっている。

平和な現代で「ヤジローは人を殺めた」と言うと、ヤジローは本当に悪いことをしたのだ、
という印象で受け止められる。

しかし当時の島津氏は、薩摩・大隅・日向3州の統一のために、戦いにあけくれていた。
主君の命とあらば、戦に赴いて敵を殺すことが武士の務めである。

それなのに、方便とは言え、あたかも、
敵を殺して武功を立てたことを、罪として悔い改める、
ということにしよう、と、言われているようだったのだ。

これを出国や改宗の大きな動機として挙げられると、ヤジロー自身は、
それが方便とはわかっていても、聞くたびに、一々引っかかりを感じた。

また、西洋人の活動全体からしても、相当な矛盾を含むものであることは、
ヤジローも察知したに違いない。敵対者を殺すのは、彼らも同様だったのだから。

しかし、矛盾など飲み込んで、とにかく探求するしかない。
宗教と彼らの活動は、どういう関係になっているのだろうか。

そしてその内、自分も本当に信じられる何かがつかめるかもしれない。
しかし、つかめないかもしれない。やってみるしかない。

ヤジローはキリスト教が、思いも寄らない深い学問を形成しているのを知った。
そこで、皆が言う通りに、彼と部下は、インドのゴアまで行く求道者となった。

ゴアが陥落したのは、マラッカ陥落の前年、1510年のことである。
ここも海上交通の要地であった。

ヤジローが到着した頃には、
ゴアは、ヨーロッパ風の巨大な石造りの建造物が、たくさんできていた。

異なる風俗の只中に、林立する教会や多くのキリスト教信者がいる、
そういう土地に変貌していたのだ。

ヤジローが学んだ「聖パウロ学院」は、そこにできたばかりの、
現地出身者を聖職者として教育する、教育機関だった。

学院の寄宿生の出身地は60人近く、アフリカから中国まで、
ポルトガルの、いわゆるアジア領全域を、カバーしていた。

ヤジローはそこで約1年間学んだが、彼の教育係として、コスメ・デ・トーレスが加わった。

      コスメ・デ・トーレスは、ビリャロボス艦隊に参加していて、
      後にザビエルやヤジローと共に、日本に渡った神父である。

      ザビエルが日本を去ってからは、二代目日本布教長となった。
      そして、亡くなるまでの18年を日本で過ごして、
      日本キリシタン教会の基礎を築いた。

      言葉に関しては、コスメ・デ・トーレスも、ヤジローから懸命に学んだ。

こうして聖パウロ学院で学んだヤジローは、洗礼を受けて、日本人初のクリスチャンとなった。

ヤジローがそんなことをしている内に、島津貴久は、薩摩統一戦で、鉄砲を実戦に使って勝った。
1549年5月末の加治木城攻めである。

日本初の鉄砲使用の実戦例であり、信長が大規模な鉄砲隊を使って大勝した長篠の戦いの、
26年前である。それは、ザビエル日本上陸の、数ヶ月前だった。
                    (時期については1549年12月とも。上掲書)