小説スペイン太平洋航路
17、ザビエルと太平洋帰還航路
トップに戻る
1549年8月15日、ザビエル一行は鹿児島に到着した。メンバーは8名。
スペイン人3人、神父フランシスコ・ザビエル、神父コスメ・デ・トーレス、
修道士ジョアン・フェルナンデス。
日本人3人、ヤジロー(「パウロ・デ・サンタフェ」という洗礼名になっていた)、ジョアネ、アントニオ。
従僕の中国人・マヌエル、インド人・アマドール。
ザビエルが鹿児島に上陸した時、驚いたのはヤジローの人気だった。
実は彼は、数々の武勲を立て、居あい抜きの若手第一人者として、
すでに郷里の人々の間では、絶大な人気があったのだ。
その彼が、この度、2年半の海外渡航の末に、
無事、使命を果たしてスペイン人を連れて帰ったのだ。
その人気は以前よりいや増しなのは当然である。彼はまさにヒーローだった。
これからはきっと、スペイン人との交易もうまく進んで行くに違いない。
人々はそう思って、ヤジローのまわりに集まり、ザビエルの話を聞きにきた。
ヤジローは帰国後、海外渡航についての報告書を書いた。
*ザビエルはヤジローについて、「日本の文字をとても上手に書くことができる」、
と書簡で報告している。
(岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』 p77)
岸野著では、ヤジローが本当に書いたのは、
キリスト教についての「教理説明書」だった、ことになっている。(p168)
そしてそれは、「スペイン・ポルトガルの活動とフランシスコ・ザビエル師に関する報告書」
と題して、1冊にまとめられた。
それは筆写され、極秘文書として、
薩摩島津、種子島、豊後大友、土佐一条、阿波海部、摂津三好、仙台伊達、各氏の他、堺・琉球商人に配られた。
そこには、スペインとポルトガルの関係、イエズス会やザビエルとポルトガル国王の関係、
ザビエルとスペイン国王との関係、ザビエルという人物、キリスト教について、
今回の一行のビリャロボス艦隊との関係、ゴアの聖パウロ学院など、
多岐詳細にわたる報告が盛り込まれていた。
ところで、イエズス会士ザビエル達の宣教そのものは、カソリックの布教ということで、
ポルトガル王の支援を受けていた。
そのために、全く怪しまれることなく、ポルトガル人の活動拠点に自由に出入りし、
その活動ぶりを観察することができた。
そしてポルトガル船を介して、手紙のやり取りもしていたし、
山口の大内氏に贈る品物なども受け取っている。
しかし同時にザビエルは、スペインのビリャロボス艦隊の意志を継いで、
太平洋航路開拓事業の基礎を築こうというのだ。
こういう入り組んだ関係を説明しておかないと、
極秘事業は、円滑には進まないものである。
ザビエル自身は、スペイン艦隊の意志を継ぐことと、ポルトガル国王の布教への意志を担うことが、
相互に利害が相反する、というほどでもなかったので、
敵対する双方の意志を受けて動くことに、さほど矛盾を感じないですんだ。
1550年12月、ザビエルは、天皇に布教の許可を得ようと、京都まで上った。
しかし京は荒廃していた。
そして天皇には会えず、
また、天皇が武士たちに対して力を持たない、ということがわかっただけだった。
もっとも、これらのことは、日本に来る前からわかっていたことである。
(岸著p129に、天皇が日本を支配しているが、支配は「御所」つまり将軍に任せている、
という日本情報を得ていたことが書いてある。
しかし実際のところ、紹介なしに天皇に会うというのは、戦国武将でも無理なことは、
ヤジローでもわかるだろうし、
それを教えないで、天皇に会え、と、言う人もいないのではないかと思う。
日本へ来たら、ますます、ただ行くだけでは無理だし、
天皇の許可をもらっても、あまり役には立たないだろう、と教える人が増えそうに思う。
それなのに、行ったことになっているのだ)
従って、それを口実として上京する必要があった、ということに注意するべきだろう。
ザビエルは京都まで行ったけれども、堺に来たという確実な証拠はない、
ということになっている。
しかしそれは、スペインと堺の関係を取り上げられては困るから、
「極秘だから」誰も書かなかった、ということであって、
実は、極めて重要な関係が発生していたのである。
ザビエルは、平戸から京都へと、直行便のない季節に、徒歩で都へと急いだ。
それは実は、都よりも堺の方に、重要で確実で急ぎの用があったためである。
堺で密かに歓待されたけれども、そのようなことは、後の記録には、
一切、残してはならない。
堺商人、日比屋了慶の邸で、ザビエルはこの度の大事業の重要人物たちに会った。
三好長慶と海部友光、そして仙台から出張してきた伊達家の家老であった。
そして通訳として同席したのは、かの池端弥次郎であった。
ヤジローはザビエルが鹿児島を立って5か月後に南海路で海部へ行き、
この時は海部友光に同行してきていた。
日比屋了慶の屋敷の一角は、すでに南蛮貿易用になっていた。
和風建築ではあるが、天井は高く、部屋も広く、
ポルトガル様式の宿泊室、ポルトガル様式の会合室などがあつらえられていて、
ポルトガル様式の椅子とテーブルで、密談が行われた。
三好長慶は、元は阿波細川氏の家臣だったが、今では細川氏よりも勢力が強くなり、
彼のおかげで、将軍も細川宗家も、京都からいなくなっていた。
京都を実質的に治めているのは三好長慶であり、当時の京や堺では、時の人であった。
海部友光は、三好長慶の妹婿なのだと言う。
(長慶と友光が義兄弟、という話は、『海南町史』にも紹介されているし、
長江正一『三好長慶』吉川弘文館、最後の方の「三好氏略系図」にもある。)
*長江正一『三好長慶』
長慶は、海部友光からもらったと言う「岩切りかいふ」と異名を取る日本刀を見せながら、
自分と、この日本刀の産地の領主であり水軍の持ち主である、海部友光との結びつきを説明した。
(「岩切海部」)リンク先の説明に、三好長慶旧蔵・黒田家伝来の阿州氏吉作(名物岩切海部)とある。
ザビエルは、垣間見えた刃を見て、海部氏もゴーレスの一人なのだろうと思った。