小説スペイン太平洋航路

24、ウルダネータの帰還航海

                            トップに戻る


                                参考:ウルダネータの帰還航海(伊東著)

ウルダネータは、今回の帰還航海には、さほどの不安を感じる必要はなかった。

もちろん、天候不順や、船内で発生する病気その他、一般的な危険はあるけれど、
航路そのものは、形式はともかく内容的には、
すでに確立されたと言っていいようなものだったからである。

ウルダネータが、海部衆とともにメキシコに帰ってきたのは1558年。
今は1565年だ。

この7年の間に、海部衆はスペイン人航海士を乗せて、3往復もしている。
フィリピンも琉球も、彼らは琉球人や薩摩人の手引きで航海したため、
痕跡を残すことなく航海した。

スペイン領ではスペイン人航海士が手引きして、これまた痕跡を残さないまま航海した。

船がどこから来たのかについて、乗員の申し立てを特に否定する材料がなければ、
そのまま鵜呑みにするしかない。

ましてや、ポルトガル領経由で来た宣教師たちがもたらした、
メキシコ副王ベラスコの依頼書を持っているのだ。

この依頼書のおかげで、行く先々で支援を受けることができた。
日本から来た、などと言うわけもなく、陸上生活者を誤魔化すのは簡単だった。

その海部衆に同伴したスペイン人航海士が、今回のウルダネータの航海にも同伴している。


琉球、薩摩、大分、土佐中村と立ち寄って、いよいよ海部に近づいた。

4年間というもの、異国の人々とともに、造船と操船の、
技術供与と開拓にいそしんだ土地だ。

言葉の習得を含めてのコミュニケーション術の獲得、
材料の吟味と収集、加工技術の伝授、操船方法の伝授。

ゼロから始めた造船技術と操船技術の伝授は、困難を極めた。
しかしこうして、苦心が成功して実りあるものに変わりつつあるのだ。

今回、自分が帰還すれば、それはようやく公の航路開拓として、
スペイン国家に承認されることになる。

1521年のマゼラン艦隊の太平洋横断から40年以上が過ぎ、
多大な犠牲を払った帰還路開拓は、やっと公式に終焉に近づきつつある。

力を貸してくれた海部友光は、元気にしているだろうか。


那佐湾の宿泊所に落ち着くと、すぐに友光がやってきて、7年ぶりの再会を喜んだ。

今回のウルダネータの公式帰還航海に、友光も、
自分の航路開拓がいよいよ本格化することを感じて、感慨深げだった。

しかし友光は、伝わってきたスペイン船団の装備のことで、
今後のフィリピンの行く末に、一抹の不安を感じているようだった。

  航路開拓に力を貸してみたものの、
  スペインの動向まで左右するような力は、当然、自分にはない。

  自分のしたことが、かつての顧客に対して、
  良いものをもたらしてくれるように、と、望んでいる。

と、それをウルダネータに言うのだった。

しかし、言ってはみたものの、友光も、太平洋航路の確立が、
既に引き返すことのできない、時代の流れであるとも感じていた。

その流れをどうさばいていくのかは、住民とスペイン人の、今後の活動の問題である。
自分には少々遠いと、考えざるを得なかった。

ウルダネータも、その本質は航海者だった。
太平洋帰還路開拓を使命として、人生を賭けて来た。

その結果が、近い結果としてはスペインのフィリピン支配であったとしても、
もっと大きな世界の流れに、自分は与したはずだ、という思いがあった。

そしてその思いは、二人に共通していた。

友光の不安に、ウルダネータは心配するなと応えた。
彼らも必ず文明化しなければならないのだ。私も彼らの向上に力を尽くす。


しばらくの休憩と交歓の後に、ウルダネータは東北へと出帆していった。
そして、無事、メキシコへの公式帰還を果たしたのであった。