小説スペイン太平洋航路

8、スペインの勢力と南海路の人々
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1520年の旗揚げは失敗だった。
阿波守護家出の細川澄元も病死してしまった。その澄元の跡を、子の晴元が継いだ。

ライバル二人が消えたのだ。細川高国の権力はいや増しになった。


1521年、阿波海部の島城。

島津家が派遣した軍師の一団が、その戦闘の情報を、南海路に流してきた。

海部友行は、島津家からの使者を迎えていた。
ラプラプの部隊とマゼラン隊との、戦闘の情報を携えてきたのだった。

洋式の船、洋式のピカピカした鉄の鎧兜、鉄砲、など、
初めて見た戦闘用の武装の話であった。絵師の絵まで持っていた。

しかしそこには、意外な話もあった。
マラッカを陥落させたポルトガルとは、別の勢力だと言うのだ。

彼らはどうやら、広大な「東」の大海を、さらに向こうの東から渡り切って来て、
しばらく東へ向かう風を探して、東へ戻りたがっていたが、
そのようなものは発見できなかった。

そこで敵地であるポルトガル海域へと、
つまり大きくは西へと向かって帰った(かどうかはわからない。消えた?)ようだ。
と言うのである。

「東」の海?黒潮なら目の前を北上しているが。
フィリピンから東の海へ出たら、黒潮に乗って日本に来てしまうだろう?

黒潮を東へ横切るというのか。それはちょっと、潮の流れがきつすぎて、
いかに優秀な南蛮の船でも、難しかろう。

ここで友行には、また引っ掛かりができた。
彼らは、地面は丸い、と言っているようなのだ。

それではなぜ落ちないのか、などというような疑問は仕舞っておくとしよう。
実際に、丸いと考えた方が、起きている事から考えると、辻褄が合うようである。

で、丸い玉の向こう側で隣り合っている二つの国が、西と東に分かれて進んで、
こちら側でぶつかり合っている、という状況らしい。

そして、東から来た勢力は、東に帰りたい、ということらしい。
しかしまあ、一体何をしているのやら。
いかに値打ちのある物があろうとも、普通はそんなこと、したいとも思わないだろうに。

友行は、南蛮人の活動には、全く納得がいかなかった。
しかし、彼の子供、孫の代と、南蛮人の活動は止むことなく続けられるのである。


2年後の1523年。またまた面倒なことが伝わって来た。
中国で、細川氏大内氏が争いを起こし、細川氏が勘合貿易から締め出されたと言うのだ。
「寧波の乱」である。 (勘合貿易に見る瀬戸内海事情と南海路)

ここでの細川氏は、細川高国である。

締め出されたからと言って、あきらめるわけにはいかない細川氏とそれに連なる堺衆。
こちらの勢力も、南方への関わりを強めるしかないのだった。

そうこうする内に、1525年・1527年と、スペイン太平洋航路探検隊が繰り出される。

しかし彼らの動きがどのように海部に伝わったかは、定かではない。


1526年には、天下は近江の細川高国、京都の柳本賢治、堺の三好元長の勢力に3分されることになった。
1531年には、三好元長は、捕らえた細川高国を自害させる。