小説スペイン太平洋航路




25密偵・島弥九郎
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            那佐湾   
 出典:【#0697:那佐湾】 tabicocolo : 旅心 : たびこころ : ひとりの旅好きが発信する旅先ガイド、西日本編。


1571年、島弥九郎は、問題の那佐湾の突端、乳ノ岬を回ろうとしていた。

那佐湾は、阿波南部の水軍の強者・海部氏の、極秘の港湾だった。

海部には古くから堺との行き来があって、商人たちが出入りしていた。

しかし、那佐湾に入る道は厳重に管理され、
湾を見下ろす周囲の山々への入山も厳重に管理され、

常に見張りがいて、沖合いを通る船も厳重に管理されていた。

密偵を放って探り続けて数年になるが、どうも何か怪しいのだ。
島弥九郎にはそれが、どうしても突き止めなければならない、重要問題のような気がする。

阿波侵攻の肝心かなめの所である。普通でない怪しさを感じるのに、
何というもどかしさだろう。
この秘密が解けないままでは、長曾我部軍にも何が起きるかわからない。
このままではだめだ。

土佐の安芸城が落ちたのは1569年。        (安芸城)
周囲を探る、殿・長宗我部元親に、何も持ち帰らないわけにはいかないのだ。

島弥九郎は焦りを強くしていた。手ぶらでは帰れない。

今日は先ほどまでの荒波が収まってきたばかり、
雲間からかすかに月の光が、もれるか、もれないかというところで、
運が良ければ湾内に侵入できるかもしれない。

事を済ませるには短時間に限る。配下の者15人ほどで、舟で漕いで出た。

湾内に深く侵入できたのは非常に運が良かった。
しかし目の前に展開する光景は、信じられないようなものだった。

見たことがない船が3艘。どうもこれは、話に聞く南蛮の船ではないかと思われた。
中国船らしき船が1艘。その他、これまた見たことがない1隻の和式軍船。
他の軍船は出払っていて、これは修理中らしかった。
その上、見たことがない設備。

南蛮の船?どうしてこんなものがあるのだろう。頭が混乱して整理が付かない。
どういう設備なのか、と思うと、つい、時間を使い過ぎた。


陸上で、吉三は、水の上を、動いているものがあるのに気がついた。
動き方がどうもおかしい。あわてて家の中に入り、皆に知らせた。

湾口の方から船が押し寄せてきた。岸の小船も、一斉にこちらに動き出した。

「どこの者だ。名乗れ」

一隻が近づこうとしたとたん、矢が飛んできた。
月の光の中の戦闘となったが、多勢に無勢。

追い詰められて島弥九郎は切腹。激しい奮戦の挙句、他の者も全員死亡となった。

どこの者だ?一番怪しいのは、安芸を襲った長宗我部ではないだろうか。

斥候が生け捕られるわけもなし。こうなったら仕方がないではないか。

弥九郎たちが行方不明になってしまったので、長宗我部軍では、あちこち探索した。
しかし、嵐の後の夜、甲浦で、忽然と船ごといなくなった、ということしかわからなかった。

海部の那佐湾の探索に行ったのだ。
行った先は那佐湾で、探索に失敗して殺された、としか考えられなかった。

海部では誰も事件を口にする者はいなかったが、
長宗我部氏が弥九郎に与えた任務は、はっきりしていた。

お前の死は無駄にはしない。今に、必ず海部を攻め亡ぼしてやるぞ。

 (実のところ、当時そんな口実が必要だったかどうか、それすら怪しい。
 狙って攻め落とそうと思ったところは、必ず攻め落としているわけだから。

 そして、海部氏が滅んだ、とは、お話の歴史でも、書いてないのだ。
 ただ、消息不明とのみ書くだけである。
 つまり、恨みを晴らす行動には、至っていない。

 江戸時代にできた小説だけが、いかにも正当理由があったように、
 こじ付けていると言っても過言ではない。)

江戸時代になって、蜂須賀氏の支配が確立してから、付近の住民が、
この事件で死んだ人々のたたりを怖れて、鎮魂のために、彼を二子島に祭った。

  (二子島の最初の慰霊碑がいつのものかは、確認していない。)

長曾我部氏はその後、10年で四国を制圧した。

長曾我部氏の、阿波攻略の最初の一撃である海部攻撃は、
長期にわたる計略の一環に過ぎない。

海部氏の秘密の軍港の攻略は、長曾我部氏に多大の力をもたらしたのである。


1708年、長宗我部時代が『土佐物語』という本になった。100年後である。
これは見るからに文学的記述スタイルを取っている。そして根拠は示していない。

しかし歴史は同時期の史料が重要である。

同時期に家臣が受け取った命令書、あるいは発行した側の控え、荷物の受け取り記録、
同時期の手紙、同時期の記録、等。

これらの真贋が確かめられて、贋作でなければ、根拠として使える史料である。

しかし同時代であっても、事実と異なることが書かれることは、珍しくない。

大体、自分に都合が悪ければ、書かない。また都合が悪ければ、全く違うことを語る。
そして、人を陥れるために、わざわざ嘘をつく事もある。
あるいはまた、全くの勘違いだったりすることもある。

内容がどれくらい真実に近いか、よく検討しなければならない。

このように色々に検討した上で、それらを根拠にして、
そこからブレることなく、歴史は書かれるべきである。

歴史というのは、はっきりしている「確実なこと」から、外れてはいけない。
       贋作虚偽検討法(事件の発生から考える史料批判)

戦国時代を書く歴史の本は、今なお、お話に過ぎない本が、たくさん出回っている。
『土佐物語』に書いてあることを、史実であるとして、そのまま書いてある本が多い。

土佐物語では、島弥九郎は長宗我部元親の弟であり、
病気治療のために移動中、嵐に会って那佐湾に入り、そこで卑怯な海部氏に殺された、

という話になっている。それをさらにひどく歪曲して、面白おかしく中傷する本もある。

*司馬遼太郎氏の『街道を行く』に、宍喰から海部あたりの話が出てくるけれども、
司馬氏の話は、海部あたりに来ると、途端に異様である。

私は、徳島に潜む海部氏敵対者が、今も活動していると感じるのだ。

海部に関して、いまわしい話を吹き込み、原典史料を歪曲し、
あるいは重要証拠から削除し、情報操作をたくらむ特定集団が、
長期間、活動しているようだと思う。

問題部分は、正規の堅実な学者諸氏による、史料改ざん(改竄)を含んで、大量にある。
        海陽町・歴史記述の問題点

衝撃的なのは、○『足利一門守護発展史の研究』小川信著・吉川弘文館
          ○『徳島県の歴史』山川出版社
          『日本交通史』児玉幸多編・吉川弘文館

以上3点の、明白な「史料改ざん」である。


            海部に関する文献が、どのように出版されてきたかを、順番に並べて置こう。
                    海部関連文献 年表