小説スペイン太平洋航路
23、第5回・レガスピ艦隊
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参考:レガスピ艦隊(伊東著より)
スペインの太平洋航路を完成させようとしたのは、フェリペ2世である。
彼は、これによって「太陽の沈まない国」を実現した、スペイン最盛期の王である。
エリザベス1世の姉である、英国のメアリ女王の「夫」でもある。
子供のなかったメアリ女王の後を継いだエリザベス1世は、海賊キャプテン・ドレイクを擁し、スペインと敵対、
フェリペ2世を敵に回し、1588年のアルマダの海戦で、スペインの無敵艦隊を破る。
イギリスとは、そういう関係にある、歴史上の人物である。
そして第4次探検隊長ビリャロボスは、探検航海で到達した島を、
皇太子時代のフェリペをたたえて「フィリピナス」と名付けた。
つまりフェリペ2世は、フィリピンという名の、命名の元となった王である。
ウルダネータが、日本からメキシコへ帰ってきたという報を受け、 (これはもちろん、作り話の部分である)
1559年、フェリペ2世は、メキシコ副王ベラスコに、 (ここからは本当である)
帰還路発見航海に向けての命令を出した。
同時にフェリペ2世はまた、ウルダネータにも、
帰還路発見航海に出るようにと手紙を書いた。
ウルダネータの実行力と才覚、それに大経験がものを言い、
帰還は確実であると期待された。 (伊東著p84)
こうしてスペインは、帰還路発見(実は二度目の航路確保)に向けて動き出した。
総隊長にはレガスピが任命された。
船隊での摩擦を最小限に減らし、運営に支障が出ないようにする必要があった。
また機密保持上からも、同郷出身者が良い、とされた。
というわけで、首脳陣をバスク地方の出身者で固めた。
困難が続く航海では、針路や航海方法、運営方法など、
船団や船内での揉め事が多発し、反乱が発生することがよくあったのだ。
航海の準備は極秘裏に進められた。
名目上は「ペルーの取引と沿岸の安全のために」行う航海である、
ということにしてあった。
しかも、出航するまで、諸隊長へすらも、真実の指示は明かされなかった。
真実の目的地が明らかにされたのは、出航後の海上でのことだった。
航海の準備は、遅れに遅れた。
おかげで、船隊の実際の出帆は、1564年11月までずれ込んだ。
遅れたのは、まずは「造船所」の問題だった。
造船所は、ビリャロボス艦隊の出発地でもあったラ・ナビダア港にあったのだが、
資材の入手が困難だった。この地で製造するとなると高くつく。
しかし運ぶとなると交通の便が悪い。
また、 ラ・ナビダア港は、健康に良くない土地だった。
居留の役人や要員たちが病気になりやすい。
原住民が少なく、つまりは使える人が少ない。
メキシコ市その他の主要地から甚だ遠隔地である。
生活必需品が高い。
こうした理由で、いい給料を出しても、赴任を拒まれる。
船を作るために必要な、人が集まらないのである。
中でも最大の関心事は、健康な要員を船に乗せなければならない、ということだった。
このように健康に不安のある土地では、乗員への心配の種が尽きない。
そこでこの頃、次回からのために、アカプルコへの移動が検討された。 (アカプルコ )
そして、「交換用の銀」。
船が持参する銀が、河川の氾濫と豪雨によって、鉱山が水浸しとなり、
復旧には、水が引くまで待たねばならない。
装具、錨、帆、太綱、その他の必需品が足りない。
「糧食」の準備も大変だった。
小麦を収穫し、乾パンを製造しなければならない。
乾季の内に2年分も保持できるように乾燥させ、旬の時期に積み込む必要があった。
「大砲」の輸送も容易ではなかった。湿気の多い地に放置すれば損傷する。
積み込む時期と、進水の時期との兼ね合い、を、考えなければならなかった。
こうして1564年、250トンと200トンの2隻のガレオン船、
50トンのパタチェ船ができ (伊東著p92)、
(p88には、200トンと170~180トンのガレオン船)
(p128のウルダネータの証言によれば、500トンを超える1隻と、
300トンを越す1隻の、2隻のガレオン船、80トンほどの小型ガレオン船、
小さいパタチェ船Ⅰ隻、フラガタ船1隻の5隻。報告者によって違うらしい)
300人のスペイン人(この内半分が兵士、半分が水夫)、
聖アウグスチノ会派の神父6人。
大砲22門、弾薬、小砲、300丁の火縄銃、
その他の海陸用の攻撃および迎撃の武器、その他の必需品がそろってきた。(同上p104)
物が揃ってくると、当初公表の目的、沿岸警備のため、というのでは、
装備が合わなくなってきた。
そこで、この頃になると、目的地ニューギニアということにされていた。
しかし、それでも疑問を持つ者も出てきた。
これらをやり過ごして、とにかく完璧に極秘に、出航にこぎつけねばならない。
レガスピは、1564年、9月1日付けの「航海および行程で順守すべき指示書」を受け取った。
14枚、67項目に及ぶ、詳細な指示書だった。
これらは航行中に、海上で公開されるのだった。
ラ・ナビダア港で、380人が乗船した。 (p127)
150人の水夫、200人の兵士、それに6人の神父、いくらかの使役人を足した数である。
旗艦は500トンのサン・ペドロ号、提督艦は400トンのサン・パブロ号、いずれもガレオン船。
(伊東著のなかで、だんだんと、記載のトン数が増えてくるのである。)
そして2隻のパタチェ船、サン・ファン・デ・レトラン号、サン・ルカス号がいた。
新造船3、旧造船1、全部で4隻(あるいは小さい船1隻を足して5隻とも)の船団だった。
各船のボート、艀(はしけ)、帆、装具、太綱、錨、その他の在庫証明がなされた。
人員の配属も決められた。役人も乗っていた。
砲手や必要とされる職人も、船の大きさに応じて振り分けた。
大小の砲、火縄銃、弾薬、攻防用の武器、その他の弾丸、
そして2基の鍛冶炉、工具、公認の黒人奴隷の数も確かめられた。
敵意ある船や原住民と遭遇した場合の交戦、原住民の武力制圧など、
予想される事態に対して、必要と認められる武器その他を持参するのだ。
そして全糧食が在庫台帳と照合された。
乾パン、干し肉、塩漬け肉、ぶどう酒、食用油、酢、魚、チーズ、豆類など。
全商品と交換用品も同じだった。すべてが管理下に置かれた。
指示書が細かいので、これを読めば、
いかなる事態が予想されていたかがわかって興味深い。
私たち日本人としては、日本近海についての認識と、
そこでのポルトガルとの遭遇の事態に、どう対処するか、というくだりだろう。
*****
地球儀によれば、この航海で日本の諸島へ到達する可能性がある。
ここへはポルトガル人も取引に来るらしいが、出会わないように配慮すること。
出会った場合、決して破約に来たのではない、と言い訳すること。
全面的に平和的かつ友好的にふるまうこと。
しかしながら、彼らも土地の原住民も、信用してはならない。
ポルトガル人がまだ行っていない場所でも同様である。
彼らが航海に携帯する海図を、盗むか、
見て少なくとも写すとか、買うとかして、入手に努める。
ポルトガル人が攻撃してくるなら防衛し、勝てば汝の支配下において厚遇し、
事情聴取のため、3、4名をメキシコへ連行する。
日本諸島、その他周辺および大陸の沿岸では、
原住民が海上で大取引をし、大型船で航海すると言われる。
遭遇すれば丁重に扱ってやり、絶対に悪行を働くのに同調しない。
むしろ友好を交わすのに努める。
陛下の御名の下、行政院の命令によって、しかるべき島嶼へ行くと理解させ、
悪天候でその方面へやむなく至った、
ということにし、友好的に種々の情報を手に入れる。
ポルトガル人に関し、情報入手に努め、報告を送ること。
*****
ウルダネータはすでに日本の事情をかなり知っていたし、
1549年にザビエルに同行した、ビリャロボス艦隊付きだったトーレス神父は、
15年以上の滞在を経て、1564年のこの頃まだ、日本国内で活動していた。
それでも、情報はいくらあっても足りなかった。
それに、この指示書の書き方だと、
レガスピは、ウルダネータが2回目の帰還路だとは、
知らないはず、というような書き方になっている。
そして指示書は言う。
*****
指示を変える必要があるような「風と事件」には、臨機応変に対処する。
その判断と決断の基準は、「神と陛下への奉仕に適っているかどうか」である。
汝のキリスト教信仰、沈着、熱情を信じ、全権と指揮を委ねたのだから、
フィリピン諸島やその周辺へ赴く意図を、絶えず思い抱き、
志半ばで断念することなく、
早期にメキシコへの帰路を発見することを期待している。
汝がメキシコへ戻るか、汝が残ってほかの者をこちらへ派遣するか、
どの場合でも、派遣する船の1隻でウルダネータを戻らせ、
ウルダネータの代替はあり得ない。
彼はその方面での長い経験と体験、有するほかの特質から、
航海で帰路を確かめるのに不可欠である。
そして、戻る船には、ウルダネータが指名する隊長を任命すること。
*****
そしてここからが報告書や航海に関する機密の取り扱いについてである。
これがまた厳重なのだ。
*****
陛下と行政院宛の「書簡」を、船隊で率いる者へ自由に書かせる。
そして、誰も途中で絶対に開封しないこと。
それは悪事と不忠となる。
メキシコのいずれかの港か場所に到着し次第、
全書簡を残らず集めて、行政院宛封筒へ密封して封印して、
陛下の代理の任にある者が知る前に、
発見の事項が公になるような被害が出ないようにすること。
指示書を与えて任務を課する船団首脳は、
行政院が到着を知って、書簡を受領したと通知するまで、
誰も上陸させないようにする。
上陸しても、一切、スペイン人やメキシコの人間とは、接触させない。
滞在した土地、持ち帰った品、航海中に発生した情報を、
何も言わせず、喋るのに同意させず、
口が堅く何も喋らない、信用のおける使者へ書簡を託し、陸へ上げる。
徒歩で集落へたどり着き、インディオか代官を見つけるならば、
到着がわかって上層部へ連絡がなされるから、
連絡を受けた行政院の、命令か書簡を提示する者を信じて、
自分が持っている書簡を手渡す。
到着地には、書簡を開けるのはもちろん、
到着者に関して何も言及しないように指示する。
通知を示して書簡を渡すだけでよい。
船の要員には土地の代官が、しかるべき食糧や必需品を供与する。
*****
この厳重な指示だけでも驚くが、原文には、さらに様々なケースを想定して、
こういう場合はこう、と、二の手、三の手が書き込まれている。
ということは、それだけ様々な経験の蓄積が、すでにあった、ということなのだろう。
つまり、乗員に書簡を書かせて、過去にどういう問題が発生したかを、知っていたらしい。
レガスピ艦隊は、1564年11月に出帆。
順調に航海して、翌1565年2月始めにフィリピン諸島東部に到着。
あちこちの島でスペイン国王のための領有宣言をしたのだった。