小説スペイン太平洋航路

12、
 秘密調査官、ペロ・ディエス


                                 トップに戻る

                        ペロ・ディエス関連史料

1545年、ビリャロボスは、ポルトガル隊長フレテスに紹介されて、
ペロ・ディエスという商人に会うことにした。

1544年に、日本の薩摩へ行ってきたのだと言う。

日本を立って、ビリャロボスに会いに来たこのペロ・ディエスという人物は、

実は、フィリピンにスペイン艦隊が派遣されたのに呼応して、
東アジア情勢を探査していた、スペインの秘密調査官だった。

表向きは貿易商人だった。彼はポルトガル人と見分けが付かなかった。

ポルトガル人として薩摩にやってきた。
そして、交易の話をしながら、それとなく東向きの風について探りを入れた。
しかしこれが、彼の存在を際立たせた。

薩摩は目下、堺・種子島・琉球・中国・ポルトガルの船が出入りする拠点になっていた。

しかしポルトガル人は、見たところ、目前の通商のことばかり気にしているように見えた。

彼らとて、スペインが東向きの風を探しているのは百も承知だったが、
そのようなことを聞くのは、スペインを利するだけである。

だからポルトガル人は、あえて東向きの風を聞くようなことはしなかった。
しかし、ペロ・ディエスは違っていたわけだ。

「東向きの風」とペロ・ディエスが口にしたとたん、
まだうまくないポルトガル語を操るその日本人の表情が、さっと変わった。

ペロ・ディエスはギクリとしたが、
こちらをスペイン人らしいと見た上で、向こうが興味を持って来たとわかってほっとした。

マゼラン隊以来、スペイン人が何度もフィリピンに姿を現しているが、
まだ日本に来た様子はない。

それと言うのも、ポルトガルとスペインにとって、その協約上、
日本の位置は微妙だからだ、というのも、ポルトガル人から聞いていた。

それなのに、スペインの匂いのする商人が目の前にいるのだ。
交易関係者は敏感である。

日本の堺商人始め南海路関係者には、密かなるスペインとの通商要望があった。

東向きの風(つまり西風)というのは、南海路よりはずっと北を吹く風らしい。
しかしそれも、海路をたどれば何とかなるに違いない。   

   その交易担当の日本人は、池端弥次郎と言った。彼は、
   「今、南方にスペインの艦隊が来ているな」と言う。

   「随分とよく知っているではないか」と驚くと、「その艦隊に連絡は取れるか」と聞く。

   「取れないわけではないだろう」と答えると、「では是非連絡を取って欲しい」と言うのだ。

   一体何の話かと思ってよく聞くと、
   「ここからずっと北の方に、東ヘ向かう風と海流がある。
   スペイン人が探しているのはそれだろう。」と言うから驚く。

   「どうしてそんなことを知っているのだ」と聞くと、

   「知っているさ。マラッカが陥落した後、今スペイン人が来ている島々に、
   以前にも、何度も来ただろう。

   また来た、というので、なぜこんなに、失敗しても失敗しても、また来るのか、
   と、いろいろ聞くと、東へ帰る航路を探しているとわかったのさ。
   
   実は我々は、マラッカが陥落する何十年も前から、マラッカへ行っていたんだ。
   日本刀を高値で買ってくれる、いいお客さんたちがいたからね。

   マラッカが陥落したと聞いて、どれほど驚いたかわかるかい?

   随分乱暴な奴らだと腹を立て、その武器を研究した。

   ラプラプから救援依頼が来た時には、こちらの軍師が出かけて行って、
   戦争の仕方を教えたのさ。

   追い払ってヤレヤレと思ったのに、それからもしつこい。

   失敗の連続なのに、これはどういうわけか、と、人を介して情報を集めた結果、
   ポルトガルとは別のスペインの勢力が、
   東向きの風を探しているのがわかった、というわけさ。」

   「で、スペイン艦隊に連絡して欲しい、って、どういうこと?」

   「日本を北上するなら、途中の港で通商したいということだよ」

それから約1年の間に、ペロ・ディエスは、
南海路関係者に内在するスペインとの通商要望を、
航路開拓につなげる努力をした。

日本の太平洋沿岸を、通商と補給をしながら北上できれば、後は東へ行けば良い。
東北の、陸上最後の拠点となる地点にも目処が付いた。

そして水先案内人については、
堺商人や南海路の関係者が請け負う向きを明らかにしてくれたのだった。

さらには、
  「まだまだ要望がある。
  自分の港でスペイン式の船を作って、自分たちで太平洋を渡りたいという御仁もおられる。」
こういう話も舞い込んできた。

こんなに話が進んでいいものか。

そう思っている内に、モルッカ諸島の紛争で、
薩摩武士が、ポルトガルに対抗する現地勢力に、軍事顧問として加勢する、
という話が耳に入って来た。

すぐそばにいるスペイン隊の一部が、ポルトガルに頼ってインド洋伝いに帰ろうとして、

薩摩武士が顧問として付く住民(ハルマヘラ島)とは逆の、対立する側、
ポルトガルが支援する住民(テレナテ島)に加勢するかもしれない、
というところまでわかった。

今は1545年だ。

ビリャロボス艦隊が出発してから、もう3年になる。
こんなにいい情報をつかんだのに、艦隊の人たちはまだ何も知らないのだ。

とにかく早く、彼らに教えてやらなければならない。

しかし、日本勢との話を確実にするためには、
スペイン側でも、日本の内部に侵入して、実情を把握できる体制を作らなくては。

ここで彼は、自由に動き回れて、使命感の強い、未知の土地に潜入してひるまない人物を考えた。

やはりザビエル殿に頼もう。彼なら日本を歩き回れるだろう。宣教師たちを先導して、
日本に情報拠点を作れるだろう。
宣教師なら、日本各地を歩いても、ポルトガル人にとっても、そう奇妙ではない。

東向きの風のことは、艦隊の人々に早く教えてやらなくてはならない。労苦は終わりだと。
しかし日本での通商の話は、こちらでも、まだ煮詰めなければならないみたいだ。

そこで池端弥次郎に、こちらで準備ができた時点で、
誰か、マラッカにいる宣教師ザビエルを、迎えに行ってくれないだろうか、と聞いてみた。

池端は、「了解した。準備ができたら誰かを迎えに行かせる。」
という上層部の約束を持ってやってきた。

こうして、日本側に準備ができたら、マラッカまで、
誰か日本人がフランシスコ・ザビエルを迎えに行く、という約束ができた。


そこで、ペロ・ディエスは、年取った薩摩武士が乗ったジャンク船に乗って、
ブルネイまでやってきたのだった。                           (かなり前の文章なので、
                                                どうしてボルネオとブルネイの2表記なのか、わからない。160907)

その薩摩武士は、現地住民(ハルマヘラ島)の軍事顧問になる予定だった。その彼は言った。
  「1521年にマゼランが来た時に、マクタン島首長ラプラプに戦略を授けたのは、この私だ」

  「見ていろ。ポルトガル人相手に、原地住民がどんな働きをするか。
  そしてマゼランの時も、背後に私がいたのだ、ということを証明してやろう」

         *岸野久『西欧人の日本発見』p27:「ボルネオから最後の船で来た。ボルネオへは日本の諸島からジャンクで来た。」

            (この文の意味は
                  「日本列島から、ジャンクでボルネオまで来た。
                  そのボルネオから、最後の船?で、ポルトガルの砦があるテレナテ(テルナテ)に来た」
            という意味だと思う。
                    
            私の仮説では、薩摩武士の方は、ボルネオでペロ・ディエスと別れて、ハルマヘラ島の王の所へ行ったのだろう。)
 

それでペロ・ディエスは、戦争の成り行きにも、非常に興味を持ったのだった。

ブルネイからは別の船に乗り換え、テルナテのポルトガルの砦に、商人として入った。
そこから彼は、ポルトガル人として行動する。


こうしてペロ・ディエスは、日本情報と、交易と、
メキシコへの東向きの風に乗る帰還路の情報を持って、
ビリャロボスに報告しに来たのだった。