小説スペイン太平洋航路

4、応仁の乱と南海路
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出典おとろえていく室町幕府と応仁の乱 (coocan.jp)  「真如堂縁起」より。真正極楽寺蔵

活発な活動にも関わらず、大勢では全く人目を引かずに来た海部だったが、

1468年、幕府・細川の遣明船が、太平洋側の航路(南海路)
を取ったため、突然、その本拠地が、脚光を浴びることになった。

1467年、応仁の乱勃発。
博多商人と結んだ中国地方の大内氏が、遣明船の帰途、瀬戸内海の航行をはばんだ。

大内船は瀬戸内海の通行を許されたが、幕府船・細川船は、遠路はるばる、
南九州・土佐を回って帰るはめになった。

これは未開拓の航路を、危険をかいくぐりながらの航海だった。

古くからの友邦、阿波海部の援護が頼める海域に到達した頃には、
両船とも、操船が怪しくなるほどの傷み方だった。

かくして幕府船・細川船は、積荷をすべて海部で積み替えて、ようよう堺に舞い戻ったのであった。 
                  (勘合貿易に見る瀬戸内海事情と南海路)

この時から、幕府と細川氏にとって、海部の港は、
急速に秘密基地の様相を帯びてきた。

それまでは、海部氏の本拠地が、実際に余所者の目に触れることは、
滅多になかった。

しかし幕府関係者・細川氏関係者、そして堺商人の関係者までもが、
海部氏の本拠地を垣間見ることになった。

海部は、刀剣の産地でもあった。
戦国時代末期までに刀工66人を輩出し、その刀剣は海部刀と呼ばれる。  
遣明船貿易で利潤が大きかった重要産物は、刀剣だったと言われている。

これまでの経緯からすれば、遣明船に乗せられた海部刀も、少なくはないだろう。
                             (遣明船貿易の日本刀)

その海部の本拠地が、こんなところにあるなんて。
皆が目を丸くしてしまった。

「この度の大内氏の所業はひどいものであった。
しかしそのおかげで、南の海の航路というものがある、ということが、
しっかりわかったぞ。」

「琉球船は毎年のように来航しているが、
古老の話では、それは60年以上も前からだそうだ。 (応仁の乱「以前」の琉球貿易)

南海路を取れば、琉球の動きも、知ることができる。

今回の迂回でも、琉球人には、随分世話になった。
九州南部の海は、琉球人には自分の庭と同じだ。

そして彼らは、はるか南のシャム(タイ)やマラッカ、<ベトナム>、
まで足を伸ばして、明に交易品を運んでいるのだ。

明はできた頃(1368年頃)に鎖国政策を取った。
琉球が活躍しているのはその頃からのことだ。
つまりは琉球人が、明の貿易の肩代わりをしていたようなものだ。

堺から南九州へまわって琉球と結べば良い。
明以外の、南の国々と交易する機会があるだろう。」

「そうだ。そのためには、まずは間近な海部の港が、非常に便利だ。」

南海路は、これを皮切りに、その後度々、遣明船の航路として使われた。

その都度、堺の関係者は琉球人との情報交換に余念なく、
南方方面との交易情報を収集し続けた。

南方方面への関心は、南海路沿いの一部の人々の間で、
次第に恒常的なものとなった。もちろん海部も例外ではない。

そしてついには自分たちで船を用意し、琉球人を水先案内人として、
南方へ乗り出して行く者が現れた。

刀剣は、南方でもよく売れる商品だった。武器は南方でも必需品だったのだ。

戦乱の世を乗り切るために、武士たちは資金の調達に躍起だった。

はるばるマラッカまで出かけ、実演販売して住民を怖れさせ、
ゴーレス(刀剣)とあだ名されたのは、こうした武士たちである。 
    (「ゴーレス人に関するコメンタリオスの記述」 大航海時代叢書 トメ・ピレス『東方諸国記』より