小説スペイン太平洋航路

5、マラッカ陥落の衝撃とマゼラン隊との出会い
                                              トップに戻る

              
            マラッカ 現代の世界遺産 (インド洋・ジャワ海・シナ海の交通の要衝)
          出典:【まとめ】マレーシアの世界遺産!マラッカ完全ガイド (0-0z.com)
                                                

1511年冬。後に海部城になる、島城の一室である。

「なにっ?マラッカが陥落したって!本当だったのか」

海部孫六郎友行は、堺商人・川田正二郎の話に呆然としてしまった。
風の便りが運んで来ていた話ではあったが、確かなことは何もつかめなった。

正二郎は、琉球王の名の認可状を持って、堺へ帰る途中だった。
仕込んだ話を、城主や家老を始め、主だった面々を集めて、精一杯に展開する。

 マラッカでは王が追放され、知らない他所者に占領されているそうだ。

 ドーンと大音響で玉が発射される巨大な筒や、
 それを持てるようにした細い棒のような筒などを使って、
 人々を追い散らし、町が占領されてしまっている。

 16隻もの船で、インドよりも、ペルシャよりもずっと西から来た、白い人間たちだそうだ。

 筒から鉛の玉が飛んで、(こんな小さいの。大筒はこんな大きいの。と、身振り手振りで説明する)
 当たると死ぬものだから、刀が全く役に立たないらしい。

一同、驚愕しきって、しばらくは言葉もない。

船大工の棟梁は、その珍しい船の様子に耳を傾け、
刀工たちの棟梁は、刀が役に立たない「筒」というものに、異常に興味を示した。

何しろ、日本刀という武器の製造業の拠点である。「役に立たない」というのは脅威であった。

正二郎は海部に来るまでに、既に知恵者の知識を仕込んできていた。

 元寇の時に、元が使った飛び道具に「てっぽう」という物があったが、
 それとも似て非なる、強力なものらしい。

「う~ん。新型の『てっぽう』か。これは大変なことになる。」
「なんとかしなくては、仕事がやっていけなくなる。」
「いや、自分たちも占領されることになるかもしれない。」
「船の能力というのが、一段と違うようだ。いずれ日本にも、来るようになるかもしれない」


孫六郎友行は考えていた。今は戦国の世。この鉄砲が世の中に広がるなら、
これはまた、随分変わってくるだろう。
しかし、相手も秘密中の秘密、決して技術がばれるようなことはしないようだ。

鉄砲の秘密がわからなければ、わからないなりに、作戦を練らなければなるまい。

***
海部氏がマラッカ陥落の報を受けた1511年。この年も決して平穏ではない。

ましてや海部氏は、室町幕府創生に深く関わった細川氏とは、その初期から、強い関係があるのだ。
その細川氏が、応仁の乱では一方の雄であった。

応仁の乱の当事者であった東軍の雄、管領・細川勝元
その後を継いだのは、その子の細川政元だったが、子供がなかった。

そこで3人の養子を迎えた。
しかしその一人が、同族、阿波守護家の細川氏から迎えた、細川澄元だった。

室町幕府の権力者の跡継ぎに、3人の候補者がいたのだ。
そしてその一人が、阿波に勢力基盤がある人物だったのである。

3人は三つ巴で跡目争いを繰り広げた。その中で、海部氏が無関係でいられるわけがない。

1507年、事件が起きた。
公卿である摂関家の九条家から迎えた養子が、養父の細川政元を暗殺したのだ。

これに、残る二人の養子が協力して、九条家出身の養子を敗死させた。

そしてこの時は、阿波守護家出身の細川澄元が、養父の跡を継いだ。
       (1508年の、細川澄元が海部孫六郎に出した書状が残っている。『海南町史』p198)

ところがこうした京都の混乱は、大内氏の介入を招いた。大内氏は京都に10年頑張って細川高国を支える。
しかしこれが、阿波守護家の細川澄元に、おもしろいわけがない。

阿波守護の細川氏としては、阿波の国内の援護が欲しい。
それは海部氏に対しても、同様だったことだろう。

こういう紆余曲折の中での、マラッカ陥落の報であった。

ここで注意が必要なのは、「細川高国に付いているのが、博多商人を擁した大内氏」、
「阿波守護家出身の細川澄元に付いているのが、堺商人の側」ではないか、ということである。

***
1511年のマラッカの陥落は、東南アジアの海上を行き交う人々を、震撼とさせた。
琉球人はもちろん、彼らの間を縫うように東南アジアへ出かけていた日本人も、
青くなった。

琉球人も日本人も、日本刀で大きな利益を得ていた。

           (遣明船貿易の日本刀・参考文献・田中・今谷2点
           (参:的場節子『ジパングと日本』吉川弘文館・2007・P86)

        *上記の資料に見られるように、当時の日本は、
          恐るべき武器(日本刀)輸出国だった(今谷明氏)のである。

          鉄砲が導入される以前に、これほどの鍛冶技術と量産体制があったことは、
          導入後の爆発的な生産拡大に結び付くこととなった。

          いろいろ政治事情もあってか、この点の研究が嫌われているようである。

だから、日本刀の武器としての効力が根本的に揺らいだ、この重大な事件に、
到底、目をつぶっていられなかった。

このままでは、我々の信用が落ちてしまう。我々の安全も確保できない。

そして何とかして、東南アジアの顧客をなだめなければ、我々の面子が立たない。
鉄砲や大砲の技術を、手に入れなければならない。

1513年、ポルトガルは、早くも中国南部のマカオにやってきた。しかし通商は不成功だった。
マラッカでの所業が災いしたのである。

そして、またもや大きな事件が起きた。1521年、フィリピン。
言うまでもなく、マゼランのフィリピン到着である。
                                       


**

マゼラン到着を、鋭い嗅覚で嗅ぎつけたのは、日本人武士だった。
東南アジアの海上を、救援を求める声が飛んできた。

マクタン島の首長ラプラプは、ゴーレスが悔しがって、
情報収集に余念がなかったのを知っていた。
そして何かあったら連絡して来るように、と言われていたのだ。

セブ島で、マゼラン隊が、王をいいように振り回していると聞きつけた武士は、

マクタン島の首長ラプラプに、恐れるな、かくかくしかじか、と、
戦闘の心構えと作戦を入れ知恵した。

一方、フィリピン人と友好を結び、キリスト教に改宗させることに成功したマゼランは、
案外、うまく行くではないかと思った。

彼がマクタン島の首長との争いの話を聞いても、さほど危険を感じる理由はなかった。
大砲と鎧と鉄砲に、みんな恐怖したではないか。
この装備に恐怖しない者がいる、というような気配はない。

しかし彼を待ち受けていたのは、
マラッカ陥落の報を受けてポルトガル人の武器を研究してきた、
戦争慣れした日本人武士だった。

鉄砲など、飛び道具が届かないように、巧妙に罠をしかけてあった。
しかしマゼランは、全く気がつかなかった。

こうしてマゼランは、日本人武士の作戦にまんまと引っかかった。
彼の強い責任感と勇気、剛直な気質は、さらに彼を追い詰めた。

彼は、恐れないフィリピン人たちの恰好の標的となり、とうとう命を落としてしまった。 
                                 (民族の英雄:マクタン島のラプラプ像)

スペインを立ち、南アメリカ南端の海峡を抜けてフィリピンへやってきたマゼラン遠征隊だが、
東に向かう風(西から東に吹く風、つまり西風、フィリピンからアメリカ大陸へ向かう風)があれば、
・・・彼らもアメリカ大陸へ戻りたかった。

ビクトリア号は、敵地ポルトガル海域を西へ西へと進み、インド洋を西へ西へと進み、
さらにアフリカ大陸南端をまわり、やっとのことでスペインにたどり着いた。

後に残った旗艦トリニダード号は、
東向きの風を求めて、ビクトリア号とは逆方向へ向かったが、それは失敗した。(20160914修正)

マゼラン隊の東南アジア残留者たちが、住民と交わり、調査を続けている間に、

アジア海域でも、マラッカを陥落させたポルトガル人とは別の集団があり、
むしろ敵対している集団があるという事が、次第に明らかになってきた。

この大事件で東南アジア海域の情報をかき集めた結果、
世界の果ての隣り合う二つの国が、

西周りか東周りかで、世界を征服しようと競争しているらしい、
ということがわかってきた。
フィリピンに来たのは、スペイン側だとわかった。

しかしこの時はまだ、大海の東に、行く手をはばむような長大な大陸があることも、
スペイン人がそこへの帰り道を、死に物狂いで探していることも、よくはわかっていなかった。

**
このマゼラン遠征隊は、ルソン島に、年間6隻から8隻の琉球船がやってくる、
と、その報告書に書き残した。   
          (*)『マゼラン最初の世界一周航海』岩波文庫p139

             「レキーの住民たちが6隻から8隻のジャンク船で
             毎年この島(ルソン)を訪れる」

                 注には「レキー」が琉球を意味するとは書いてないのだが、
                 当時の東南アジア海域の交易事情全般から判断して、
                 「琉球」であろう。
                 琉球が来ているかどうかに興味があった、ので記録した、と考える。

琉球人なのか日本人なのか、見分けのつかない住民は、
刀剣を持ち歩くそれらしき船を、皆「リキウ」と呼び、また刀剣をも「リキウ」と呼んだ。

「リキウではないが、日本刀を持ち歩く別の人々がいる」とわかった者たちは、
その人々を、現地の言葉で刀剣を意味する「ゴーレス」と呼んだ。

1511年のマラッカ陥落の際に作成された、
ポルトガル人トメ・ピレスの『東方諸国記』には、
リキウとは別に、刀剣を売る「ゴーレス」の存在が記されている。

日本人が当時すでにマラッカにまで出かけていたというのは、
これまで日本人研究者達からは、あり得ない、と、完全に無視されてきた。

『東方諸国記』の書き方に、日本人は海洋民ではない、と書いてあるように見えることや、
日本側からの史料が出なかったことが原因である。

したがって、ゴーレスはリキウ(琉球人)である、ということになっていた。

しかし、太平洋航路開拓に果たした宣教師たちの秘密の役割を考えれば、
スペイン人が日本人の航海力に、さらなる言及を追加しないのは当然である。

日本人の航海力を大きく見せると、秘密航海の源泉が日本にあることが、
ばれてしまう恐れがあるのだから。

だから、日本人が1511年当時に、すでに東南アジアに日本人が出かけていた、
なんて、新たになった認識を、改めて書くようなことはしない。

そしてスペインの秘密航海に関わった日本人の側からすれば、
航海力を否定する材料を流しはしても、
航海力があった、などという情報を、流すはずもない。

日本人は、西洋の報告で記事にされたゴーレスと同じく、どこから来たかを語らない。
そして、どこから来たかを特定できるような船も使わない。

琉球船や中国船と同じ船しか使わなかった、とすれば、
ますます特定が難しいだろう。

そしてその後の長い鎖国の価値観では、航海力を持っていたことなど、
危険なだけだった。

密貿易は死罪に値する大罪である。
自らの安全がおびやかされる。これはよろしくないことだった。

明治になっても、密貿易の言葉の響きは、全く良くなかった。
江戸時代の大罪のイメージばかりが先行する。

後ろ暗い悪行、自分勝手な罪悪の延長線上にあった、罪深い所業。

そこには、海外雄飛などという勇ましいイメージや、広大な知見・視野、
先取の気性、航海技術、などという、プラスの思考など、
全く浮かんでこないのだった。