小説:スペイン太平洋航路
2、黒潮に乗る海上ルートの拠点・海部
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16世紀、日本から北アメリカに向かう北太平洋航路の発見に、参画した日本人たちがいる。
それは、太平洋側の海上ルートを使う人々であった。そのルートはまた、「南海路」とも呼ばれていた。
内海である瀬戸内海ルートは、波も静かで開発も早かった。
では、古代日本の海上ルートの拠点である河内から、
四国南岸をたどって九州・琉球へとたどる、あるいは逆に遡行する太平洋側のルートは、
いつどのようにして延びたのか。
発掘された古代遺跡は語る。
3世紀になると、全国的な傾向として、海上ルートでの遠方への移動が確認されるようになる。
南海路で注目される遺跡は、徳島県海部郡海陽町芝の遺跡である。(海陽町の位置)
2005年の発掘報告では、徳島県南の僻地にも関わらず、
3世紀ごろの、数多くの「他地域の土器」が発掘された。
土器数196点に対して、その割合は149点。実に76パーセントが「外来土器」なのである。
土器がどこから来たかと言うと、阿波の現地外地97、畿内39、讃岐7、土佐3、吉備3、と言った具合である。
発掘報告はこれをもって、
「この3世紀の時期に、徳島ー高知ルートとして、海上ルートが開発されたと考えられる」 とする。
(芝遺跡発掘報告)
3世紀、ヤマトは日本各地の未知の土地に、探検隊を派遣した。
阿波海部は彼らによって、この時に発見された土地である。
比較的大きな川があり、その川が海に入る所に小さな島があり、
その島の周辺には、船着場として具合が良さそうな小さな湾がある。
その脇の、小さな島と岬の間を抜けると、両側に長く平行に伸びる山々に挟まれて、
「紐」のように長く、奥行きの深い湾があった。これが現在の那佐湾である。
海部川くらいに水量が豊かな川というのは、この海部を出て室戸岬を回って土佐へ向かうと、
奈半利まで見ることができない。
この3世紀までは、拠点から前進しては、居住に適した場所があると定住する、
というやり方をしていた。
しかし3世紀は、列島各地に足を伸ばして探検し、
全体の状況をつかむことに重点が置かれた。
海岸から離れず、天候や風や海流に注意しながら、決して無理をしない。
こういう慎重な調査によって、四国が、東の大海に面した島であることが確認された。
その内、西からも東からも一周できることがはっきりした。
この時、両側からの四国一周の海路の中継地点として、阿波の深奥部では、海部が目的地となった。
畿内・阿波方面から土佐へ向かう場合、阿波海部は、
一時休止に適当と見なされることになった。
5世紀になると、海部の地にヤマトの承認が下った。
やってきた技術者の指導の下、海上から見える大里の台地の上に、大祭壇が作られた。
それは二つこぶの葺き石の山だった。
*現状では円墳ということになっている。(大里古墳)
しかし、わざわざ古墳の破壊を目指したが如く、道路を貫通させたことは、
円墳だという認定に、疑問を抱かせる。
徳島県史や地元史は、原史料を改ざんし、貶める行為だらけである。
この現状では、こういう不審な開発を元にした認定は、疑われても仕方がない。
住民の一人一人が、全員、順繰りで少しずつ参加して出来上がった。
何しろ、参加することで、それぞれにご利益があると言うのだ。
こうしてヤマトの承認が降りたからには、全員でヤマト化して、
ヤマト他地域との交流を盛んにして、より良い暮らしを築かねばならない。
大祭壇の築造は、ヤマト連合に参加した地域であることの証明である。
ヤマト本部を中心にして、全国の交通・物流・情報のネットワークに参加することになるのだ。
住民全員の言葉のヤマト化も、祭壇作りとともに進行した。
地域の首長が、ヤマト本部から下された、金冠と金環と金耳輪と玉飾りを添えて葬られた。
皆が土地の神の出現を寿ぎ、土地の繁栄と無事を祈った。
こうしてヤマト公認の土地となった海部は、海上交通の中継地として、重要度を確立した。