「三好長慶の姉妹が、海部友光の妻だったという話」の根拠
        と
「海部は細川氏が最初に占拠した地」という記述の根拠

                          元(海部友光の決意)に戻る


三好長慶の姉妹が、海部友光と結婚していた、という事の根拠は、

長江正一著『人物叢書・三好長慶』吉川弘文館の、私が持っている旧版では、
260ページの「三好氏略系図」に出てくる。

また、海南町史p203にも出てくるし、海部町史にも出てくる話である。

こういう場合大事なのは、書いてある本の数ではなくて、最初の原本の信用性なのだが、
最初の原本とか、最初の出典とかは、今の所、わからない。


それにしても、元長は32歳くらいで死んだのに、
長慶の兄弟姉妹は、9人もいることになっている。

側室が何人もいたら、こうなるだろうか。
それとも、養女、養子も混じっているのだろうか。

とにかく、男は各地有力領主の養子に、女は阿波の有力城主の妻に、と
姻戚関係を同盟の要として結束を固めるやり方なのである。


それから、困ったことを発見した。
p181、阿波国での後に三好になったとされる小笠原姓の分布で、
三好家の広がりを推測した部分に、

  「阿波海部での小笠原姓が絶無なのは、一つは細川氏が最初に占拠した地であるため、
   他氏を追い、他は阿波として辺境であるから、小笠原の血がまだとどかなかったのであろう。」

と、全く何気なく、重大なことを書いてある。

出典は何か。初期のことなら『太平記』にでも出てきそうな重大事だ。

そう言えば、土佐も細川氏の領有だったし、
海上ルート中継地点の海部を、知らないで済む、というわけにも、いかないようである。

しかし『太平記』にそのような記事があるなら、誰かが大騒ぎしても不思議ではないのに、
全く聞いたことがない。

一体全体、長江正一氏は、これを何と思っていたのだろうか。