小説スペイン太平洋航路

21、隠れ家
                  
トップに戻る


海部川上流の山中に、海部氏の隠れ家があった。


そこを守る長老は、山や畑の仕事をしながら、
海部川を上下する物流で商いをして暮らしていた。


昔は川を利用して物資を移動させていた。

船に物を乗せて下るのはわかりやすい。
上りはどうするのかと言うと、

一人が、わらじ履きで川原を歩きながら長縄で船を引っ張る。
もう一人は、船に乗って棹を差したりへさきを引っ張ったりして操る。

そうやって船を操りながら、川を上流へと遡るのである。  (『海部町史』p104あるいは「川を遡る」で検索)

川を上下する船を、海で使う「沖・高瀬舟」と区別して、「川・高瀬舟」と呼んだ。


昔は川は重要な物流ルートだったのである。
海部氏の長老は、その物流の中継地にいた。
そしてその家屋は、確かに海部氏のものだった。

目だった行き来はしていなかったが、
友光は子供の頃、父と一緒に長老を訪ねたことがあった。
それは5月のむせかえるような新緑の頃のことだった。

山を歩くと、崖っぷちの獣道以外に、道と言えるような道がない所がある。
それで、朝早く、遡行する船に乗った。
途中の津でも度々停まりながら、夕方になってようやく皆ノ瀬の津(港)に着いた。


  ここからさらに奥へ荷物を運ぶには、背負って行くしかない。
  しかしそれでも、奥深い山中に、霧越峠を休憩地点とする、
  確かな流通路ができていた。

  霧越峠とは、名前はロマンチックだが、その名の通り、霧に包まれていることが多い。
  鬱蒼とした森林を見透かすと、かろうじて、空に連なる山々を見はるかすことができた。
    (現代は自動車道から切り通しになっている。昔はここに茶店があった。))

  阿南へ下る那賀川は、その昔は、上流が浅くて交易には使えなかった。
  物流が那賀川沿いへと変わったのは、実に、400年後の大正時代である。(『海部町史』p102)

  古くから海部川を上下する物資は、上流からは木炭・茶・椎茸など、
  下流からは塩・米・鰹節・衣料などだった。
  必要な物は、相互に融通し合わなければならない。

  そしてまた、木材という重要商品が、上流から下流へと、大量に移動していた。
  これらは筏(いかだ)流しや放流で移動させた。

  昔は川沿いの物流関係者が大勢いた。
  長老はその中継地にいた。

川原をたどって、それからさらに、
細い登り道をしばらく上がって行くと、
覆いかぶさるような木々の間から、丸木を並べた高い塀と門が現れた。

門を抜けると、何重にも仕切りがあり、
倉庫がたくさん並んでいて、住む家も複雑に入り組んだ作りで、
人がどこでどうしているのかわからないような、家屋のかたまりだった。

その向こうには田畑が広がっているのが見えた。

長老の住まいは、かなりの大人数だった。
川を遡る時の最終地点であるため、仮の宿泊や預かり、食事の用意も必要だった。
そのために人が多く、物も多く、緊急時の防衛対策も多かった。

この頃は平和は保障されておらず、野生動物の被害も多く、
可能な限りの防衛体制が取られていた。

この家の長が、海部氏にとって長老という関係にあるのだ、
などというようなことは、誰も知らなかった。

ここへは、海から奥地に運ばれる品々に紛れ込ませて、
あれこれと貴重品が移動してきていた。

友光の父に請われて、長老は奥へと案内した。
長老も、いかなる時にも腰の刀をはずさない人だった。
この地ではそれが常識だった。

そして薄暗がりに差し込む日の光を頼りに、
海部氏伝来のものだという、不思議なものを見せてくれた。

一つは、無数の亀甲紋が浮かび上がる、
太陽の光を固めたような、透明なカットガラスのお椀だった。

外側にたくさんの丸いくぼみが付いて、
重なり合った部分が亀甲模様になっている。
それが光の反射で、無数の亀甲紋が浮かんで見える、ようになっているのだった。
                           参考:正倉院ペルシャ椀 
                                           出典白瑠璃の椀とペルシア : 写真でイスラーム (exblog.jp)

「目出度い品だ。」

これがいくつもあるのだが、父の話では、
これはペルシャのもので、とても古い物だと言うのだ。

人が作った、透き通った硬い品物というのは、
友光はそれまで見たことがなかった。

光が反射して、無数の亀甲紋が浮かび上がるというのも、実に不思議な感じがした。



二つ目は、色とりどりの鳥の羽を貼り付けて描いた、
木の下に立っている長い衣の女性の屏風絵。

この貼り付けてある羽は、外国の鳥のものだと言う。
「染めてあるの?」と聞けば、「羽を染めることはできん」と答える。

羽はとても大きなものだった。
そして色となると、赤、黄、青、白、桃色、橙、紫、緑、というような色である。

小鳥ならまだしも、このように鮮やかな色をした、大きな鳥がいるなんて、
想像もできなかった。

それを、色を使い分けて、下絵の彩色代わりに貼り付けてあるのだ。

「緑の森の中に、こんな色とりどりの、とても強烈な色をした鳥がいる、
そういう所があるのだ。」

その鳥の羽が、屏風絵に仕立てられて、
遠い異国の森林を想像するよすがになっているのだった。

それで作ったものなのだよ。これも、とても古い物だ。」  
                                 上の写真は、現代作家の再現らしい。貼り付けた鳥の羽は日本産の山鳥だそうです。
                                 K氏が聞いているのは、オウム(インコ)の羽です。赤、黄、青、白、桃色、橙、紫、緑になるはずです。
                                            出典国宝展その前に | いつか…ユデタマゴ (ameblo.jp)

羽のすじを見ながら、色鮮やかな大きな鳥がいる森を想像しようとしたが、
見たこともない世界のことに、友光は困惑するばかりだった。

鳥の名はオウムというのだと聞いた。

   くちばしの曲がったオウム目(もく)の鳥には、
   オウム科の鳥もいれば、インコ科の鳥もいるが、
   昔の人は、特に区別はしなかっただろう。



三つ目は、竹のまきすのような物。大量にある。
竹簡と言って、昔の本だと言う。
中国では秦の始皇帝の時代によく使われたものだという。

長さ30センチ幅1センチ、くらいの竹片に文章を書き連ね、それを綴じ合わせる。
グルグル巻いて仕舞うので、ちょうど、巻き寿司を作るときの「まきす」のように見えるのだ。

重くてかさ張るので使われなくなったものが、ここにあると言う。

みんな、海部の先祖の由来を語る物なのだそうだ。        復元した竹簡→ 
                                            出典:竹簡を作る - 博客 金烏工房 (goo.ne.jp)
                                       K氏が見た物は、薄い竹片を横に穴を貫通させ、
                                        糸を通して綴じ合わせてあるものでした。 
                                        一枚一枚、間に結び目を作って、巻く時のゆとりを持たせた物でした。
                                                                               
海部氏は、ペルシャから来た一団の中で、海運を担ってきた部族だったという。

先祖は昔から海を行き交うことを仕事にしてきた。
遠い昔には、外国を行き来していた。
だから今も、海を通して日本の外のことに関心が強い。

父・友行はそう言うのだった。

とても大切な物だから、海岸近くには置いておけないので、ここに移動させてある。
今の世の中はとても物騒だから、ここのことを、忘れないように、と言うのだった。

あれからも時折訪ねてはいるが、姻戚関係にある、などというようなことは、
全く口にできない。気を許せる身内にしか、教えられないことだった。

祖先のこととなると、何と考えたらいいかわからない事が多かった。
しかし、遠い国の異人たちと手を組んで、この世界の探検に一役買おう、などと考えたのは、
戦費の捻出や通商というような、身近に迫った必要だけではない。

もっと何か、心の底の隠れた所から湧いてくる、強い興味と、探検者たちへの同調だった。