小説スペイン太平洋航路

22、海部衆、初の帰還航海

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ザビエルに、太平洋航路開拓の手引きを寄託していたスペインでは、
どうだったのだろうか。

ここでは少し、時間を遡って、スペインの様子を見てみたい。

1548年、スペイン国王カルロス5世は、ザビエルが日本に上陸する前に、
ビリャロボス艦隊のエスカランテ報告を受け取った。

カルロス5世は、ビリャロボス艦隊の報告に、考え込んでしまった。

第1回「マゼラン艦隊」5隻で、消耗したのが4隻。乗員265人の内、帰還1隻18人。

第2回「ロアイサ艦隊」で消耗したのが、7隻。
乗員450名の内、捕虜になった少数者以外は行方不明か死亡。

第3回「サーヴェドラ艦隊」で消耗したのが3隻。捕虜になった少数者以外は行方不明か死亡。

第4回「ビリャロボス艦隊」で消耗したのが4隻、
乗員370人の内、
投降してポルトガル・ルートで帰った117名以外の250人近くが、行方不明か死亡。

こういう中でのエスカランテ報告に、カルロス5世は思った。

  帰還隊員のエスカランテがよこした、表向きでない、内々の報告では、
  マラッカに来ていたゴーレスは日本人だったそうだ。

  文字があり、刀剣が満ち溢れ、鉄砲が急速に流通し始めているそうだ。

  そして日本人は言ったそうだ。東向きの風があるから通商したい。
  造船や操船の技術が導入できれば、我々が日本からメキシコへ行ってみたい。

  イエズス会士フランシスコ・ザビエルを迎えて、詳細を煮詰めたい、と。

  しかし、東南アジアには、複雑な内容を表す言葉も文字もなく、
  社会に大きな組織が見られないような地域が多いのに、

  どうして中国でない文明の国が、東の端の島々に、あるのだろう。
                            (う~ん、ここはどうなのだろう。20160914記)

  それに、話がうますぎるのではないだろうか。

しばらくすると、ザビエル自身から、ポルトガル商人アルヴァレス(つまりスペイン人ペロ・ディエス)の情報や、
迎えに来た日本人ヤジローの情報が送られてきた。

最初にやってきたのは、ザビエル書簡に同封されていた、アルヴァレスによる日本情報だった。

アルヴァレスは、ペロ・ディエスの別名である。
初めての、かなり正確な日本情報だった。    (岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』吉川弘文館p79)


ゴアでは、ヤジローについて、様々な角度からの観察がなされ、その結果がスペインに送られてきた。
かなり具体的で詳細な観察事実が伴っていたので、真実度が増して見えた。

そしてザビエルは日本へ行くと言う。

カルロス5世は思った。しばらく静観して、ザビエルの報告を待ってみるしかない。

このころカルロス5世は、スペインではなく、オランダのフランダースにいた。
(ここが生まれ故郷なのだ。この辺のヨーロッパ王侯事情は少々ややこしい。)


  スペインの議会や商人たちは、ビリャロボス艦隊の報告で、
  ヨーロッパとアジアでの、金銀の交換比率が大きく違うのに、非常に心魅かれた。

  メキシコで相次いで銀山が発見されている折柄、こちらでは金銀の交換比率が1対10なのに、
  アジアでは1対6なのだと言う。

  つまり、こちらでは、金を「1」手に入れるのに、銀が「10」必要なのに対し、
  アジアでは、金を「1」手に入れるのに、銀は「6」で良い、ということである。

  アジアへ銀を「6」持って行けば、金が「1」手に入る。
  その金「1」をヨーロッパで銀「10」に換え、銀「4」を手元に残して、
  銀「6」をアジアへ持って行けば金「1」になり、銀「4」は貯まる。

  さらにその金「1」をヨーロッパで銀「10」に換えると、銀は前回の残りと合わせて「14」になる。
  その内の銀「12」をアジアへ持って行けば金「2」になり、銀は「2」貯まる。

  実際に金銀を持ち歩くと大変だが、銀鉱山が発見されて大量に銀が出るとなると、
  この交換比率はさらに魅力的に見える。
  最初に銀を「6」持っていれば、行ったり来たりで金が2倍になるのだ。

  こういうところから、ポルトガルからモルッカ諸島を買い戻せという声も出てきた。
  しかし、カルロス5世の、「それ以上話題にしない」という命令が届いて、皆が黙り込んだ。(伊東p80)
              
      

               *「マニラ・ガレオン貿易と金銀」については、いろいろ話がある。

                 通説では、新大陸から中国への銀の流入、日本の石見銀山の銀の話などと一緒になって、
                 銀経済圏の成立、などと言われる。『東南アジアを知る事典』

                 しかし、金銀交換比率の話となると、上記のように、単純計算で行くなら、
                 金が大量流出したのではないか、と、私は思うのである。

                 銀経済圏と金経済圏など、現代ではありはしない。では、それが消える時、
                 どうなったのか、となると、今の私にはわからない。
                 ただ、幕末に日本が開国する時に、この交換比率の違いのおかげで、
                 金が大量流出したのは有名な話である。

                 それから、1565年頃のフィリピン自体の金産出情報も、
                 スペインのインディアス文書館には、原文資料がたくさんあるのである。
                         的場節子著『ジパングと日本』吉川弘文館


1549年8月、ザビエル一行、鹿児島上陸。

それから数年かけて、ザビエルの書簡が続々と届いた。
海部という領主の領地で船を作って、アメリカ大陸へ渡ろうという計画がある。

それが着実に実行されるだけの、権威と統治力、知識と技能、意欲と能力が確かにある、
ということが書かれてあったのだった。

連絡を受けて、カルロス5世は航路開拓関係者に伝えた。

布教を理由にスペイン人を日本へ送り込むくらいのことなら、大いに協力しよう。
また、その他のことに関しても、できる限り援助する、と。


1552年2月、ザビエルはインドのゴアに戻ってきた。
それから中国への布教を目指して中国へ向かったが、その年の12月、中国で病死してしまった。

航海士ウルダネータが宣教師になったのは、1553年3月である。(伊東著『マニラ航路ーー』p84)
彼は、1525年の第2回ロアイサ隊の生き残りだった。そして初の帰還航海成功者ということになっている。

   ウルダネータは、その12年後の1565年、
   日本近海を北上し、偏西風を捉えて太平洋を東向きに横断、北アメリカに到達した。
   太平洋帰還路開拓者として名を残した男である。
   

1554年、ウルダネータは名を変えて、宣教師としてメキシコを出発した。
同じく宣教師になった造船技術者と港湾技術者も一緒だった。

ただし彼らは、ポルトガル・ルートで行くのである。大西洋を渡ってポルトガルへ。
そしてアフリカ南端を回り、インドを回って、マラッカ経由で日本へやってきた。

鹿児島の受け入れ地から、まっすぐ船で、海部までやってきた。
那佐湾にヤジローがいて、ポルトガル語で出迎えてくれた。

  ウルダネータも、モルッカ諸島での捕虜生活・ポルトガル・ルートでのメキシコへの帰還の間に、
  ポルトガル語が堪能になっていた。
  だから、ヤジローとのポルトガル語での会話は、全く問題がなかった。

領主である海部友光が、ポルトガル語で挨拶してくれた。
いずれ必要になるのはスペイン語だとはわかっていたが、
ヤジローについて、ポルトガル語を勉強していたのだった。

周囲の人々もポルトガル語で挨拶してくれた。重臣や船大工や水夫たちだった。
みんな、初めて見る西洋人に、好奇心満々のようだった。

ウルダネータは紐のように長い那佐湾を眺め回した。

重要なことは、この湾には、陸から通じる道がない、ということだった。
そして住民が使う道からは、湾を見ることができない。

湾は、濃い緑に覆われた、平行する細長い山に挟まれて、3キロ以上続いていた。
一番奥で、両側の山の間に低い土地が形成されていて、そこで、塩を作っていた。
海水を汲んで撒き、天日で乾燥させる方式だ。

塩はこれも重要産品であり、秘密港で作っていることもあって、
ここで作られる塩は海部氏の専売品だった。
そして塩田のその向こうは、また海だった。

すでに世界を一周したウルダネータの目で見ると、
その湾はごく小さいが、潮の干満は充分ありそうだった。

塩田の山側の平坦地に家々があり、新しく建った家々もあって、
その内の一軒が、ウルダネータたち外国人用だった。
洋風にしつらえてあるのが有難かった。

受け入れ態勢が整っているのに、ウルダネータたちは感ひとしおだった。
これからいろいろと問題が起きてくるに違いない。
しかし、この異国の人々による、迎える側の前向きの態勢は、ウルダネータたちを感動させた。

必ずしも好意的とは言えない国々が多い中、
征服の対象でもなく、自分たちが異民族に迎えられる立場だというのは、珍しかったのである。

この湾が、太平洋の向こうのアメリカ大陸につながっているのだ。
ウルダネータは、必ず帰ってみせる、と、決意を新たにするのだった。


宣教師に姿を変えた後続のスペイン人たちが、バラバラに日本へやってきた。
彼らを補佐する、宣教師団のスペイン人ルートに乗ってやってきた。

この中にはしかし、布教を目的とする本物の宣教師はいなかった。
那佐湾から出ることはできなかったからだ。

鹿児島までやってきた後は、皆、太平洋回りで海部にやってきた。
そして那佐湾に集結し、試行錯誤の末に、最終的に150トンの船を作り上げた。

  用材は松と杉だった。
  元来、スペインのガレオン船は、「チーク」材で作られて堅牢な城と称えられたものだが、
  手近にある材料が使われた。

       *松田毅一『慶長遣欧使節』朝文社p195、伊達政宗建造船の用材は松と杉。
        1618年、フィリピン・マニラでスペインに売却された。p282

       *サン・ファン・バウティスタ号(宮城県慶長使節館ミュージアム)
           45日で500トンの外洋船ができたというのが不思議。
           日本のどこかで、先行して造船が行われていた、
           というのは、荒唐無稽な空想と言えるだろうか。

  洋式帆船を作るためには、造船用ドックが必要だった。
  そこで、まずは湾内のえぐれた所に、両側からせりだすようにして、石垣を築いた。
  中央の石垣のない部分は、船が出る部分である。

  石垣のない部分に扉を作って、引き潮の時にそれを閉めれば、
  内側には乾いた地面ができる。

  乾いた地面に船を置く台を作って、その上で船を組み立てる。  

  船が完成したら、引き潮の時に扉を開けて置けば、
  潮が満ちるに従って海面が上昇し、船が浮上する。

  その船を、ドックから漕ぎ船で、慎重に引き出す。

  干満差を考えて、必要なら地面を掘り下げて船台を置き、その上で船を作る。
  完成した船が満潮時には出られる、それが、那佐湾で作れる船の大きさだろう。

        *那佐湾の干満差がわからないので、実際にできるかどうか確認できないが、
         ここは小説ということだから、150トンくらいならできる、ということにしておく。

         後にウィリアム・アダムス(三浦按針)が作った、大きい方の船が120トン、という数字による。

         この船は、太平洋を横断した。
         千葉県御宿で難破した船に乗っていて、帰る船を失った元フィリピン総督を、
         メキシコまで乗せて帰ったのである。

         120トンの船で太平洋を渡ったという事実があるので、150トンにしてみた。

木材の他に、諸々の金属の道具を手作りする必要もあったし、
            (作るのとポルトガルから買うのと、どちらが安いか、目立たないかによる)
布や綱など、調達する必要がある物が、いろいろあった。

言葉の困難を乗り越え、多くの人々の協力のおかげで、日本初の西洋式帆船が完成した。
協力者には、堺の出身者も多かった。伊達や島津からも来ていた。

この人たちの間で継承され続けた造船技術が、後に、
ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の造船や、伊達正宗の造船に生かされた。

操船を学んだのは海部衆だった。彼らは常に太平洋側を往復していた。

この、海で直面する問題には慣れていて、天気や風や潮を見る知恵に長けていた海部衆も、
洋式帆船には苦労した。

ロープで格子状に作った広幅の縄梯子を登って、マストに横に渡された帆桁に取り付かねばならない。

帆桁には、手でつかむ綱(つな)と、足をかける綱(つな)があり、
その綱を頼りに体を固定して、巻きつけられた帆の結び目をほどいて下に垂らす。
これが帆を広げる作業である。

帆を閉じる場合も、登って帆を巻き上げて帆桁に結びつける。

高所・空中での揺れながらの作業は、まさに軽業師さながらである。

ウルダネータは、海部衆から、動作の敏捷な若者を選抜して訓練した。
その中に、鞆の吉三という16歳の若者がいた。
皆が震撼した縄梯子登りを、驚異的な速さで習得した。

皆がそれを見て、やってやれないことはない、と奮起した。
繰り返し訓練することで、若い衆の皆が恐怖を克服し始めた。
我々も海の男だ。やってできないことはないはずだ。

そして皆が、航海技術の基本も学んだ。

こうして、非常に時間はかかったが、様々な難題を克服して、海部を出航する時が来た。
それは最初のスペイン人が海部に到着してから、実に4年後だった。

船の名は「海部丸」。ウルダネータが航海士として乗り組んだ。
スペイン人と海部衆の共同作業による操船だった。琉球人の水先案内人も乗っていた。
フィリピンや琉球方面での案内のためである。

友光と家老一人、ヤジロー等が、伊達公への挨拶のために乗り込んだ。

東の空が白み始める頃に、大勢の人々に見送られながら、「海部丸」は那佐湾を出帆した。

那佐湾沖の海上交通は、この日、完全に禁止となっていた。
土佐側の甲浦では、朝の間の出航禁止の通告がなされ、
宍喰や浅川も同様の措置が取られた。

近隣住民の行動制限も、午前中の間は、限界ぎりぎりまで引き上げられていた。

こうして「海部丸」は、一般住民には知られることなく、悠々と、陸が見えない沖合いまで出た。
そしてそこから、はるか仙台を目指した。

そして友光たちは伊達領で降りたが、「海部丸」は秘密港で補給し、
時期を見計らって、太平洋に乗り出して行った。

大海の東の果てにあると言うアメリカ大陸。そこに向かって流れる、強い海流と風。

白い帆に、風を一杯にはらませて去っていく「海部丸」を見送りながら、
友光は航海の無事を祈った。そして、この地球世界の不思議さを思った。

「海部丸」の航海は、天候に恵まれて、比較的安全な航海だった。
やがて北アメリカに拡大していたスペイン領にたどりつくことができた。

こうして、初のアメリカ大陸行き太平洋横断は、スペイン人と海部衆によって成功したのである。

ウルダネータの、日本からメキシコへの帰還は、極秘情報としてスペインに伝えられた。
1558年のことだった。

ウルダネータを残して、別の航海士が乗り、
「海部丸」は南太平洋、フィリピン経由、琉球、薩摩の秘密港経由で海部へ帰った。


1558年9月、スペイン王カルロス5世が薨去。
1559年になると、フェリペ2世が、帰還路開拓に動き出す。


準備万端整って、1564年11月、ウルダネータを擁した第5回レガスピ艦隊が、
アカプルコを出発。1565年2月、フィリピン到着。

1565年6月には、ウルダネータが日本を再度北上して、
これが公式の、太平洋帰還路発見となる。