小説スペイン太平洋航路
26.海部城落城
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1575年。海部友光と吉清親子は、三好長治の手紙を見ながら思案していた。
讃岐への出兵の要請だった。
三好家の身内同士の争いのようなものに出兵するなんて、どうも気が進まない。
しかし断れば、阿波では、三好宗家に対する裏切りと、
受け止められかねない。
出兵は気が進まないけれど、腹をくくって、
あえて裏切りと見なされかねない態度に出るのも、
これまたどうかと思われる。
三好の人たちは、どうして自分たちでうまくやってくれないのだろうか。
これもそもそも、三好長慶の最後がおかしかったことに始まる。
嫡子が死んで、身内から後継をもらったら、次は自分の弟を殺すなんて。
そして長慶自身も、43歳という若さで死んでしまった。
造船が成功して、スペイン人と共に海部衆が乗り込んで、
太平洋横断に成功し、しかも一周して海部に帰ってきたと言うのに。
そこまでは報告を受けて、長慶も目をキラキラさせていたのに。
正規のスペイン船が海部にやってくる1年前に、三好長慶は死んでしまった。
三好宗家と言っても、我々には少々縁遠くなったような気がする。
それは他の阿波衆も同じだろう。
何と言っても、長慶は自分の姉妹を、阿波の頭目に振り分けていて、
あの頃は皆、血縁ということになっていた。しかし長慶が死んだ今、状況は違う。
でも、だからと言って、長い付き合いを反故にするわけにもいかない。
ここで海部が行かなければ、他の阿波衆は、一斉に三好宗家から離反するだろう。
自分が先頭切って、そういうことをするわけにはいかない。
入り乱れた勢力争いに加わるのは気が進まなかったが、阿波は安定して欲しかった。
こうして仕方なく出兵したのだが、土佐のことなど、全く計算外だった。
土佐の名家で、長宗我部氏に対して恩ある一条の御所が、去年追い払われて、
今年になって再起を図ったものの、四万十川の戦いで敗退した、
という所までは知っていた。
一条氏は元は公卿で京都にいたのだが、応仁の乱で土佐の中村に移って来た。
この地には、スペイン船が立ち寄る、南海路の拠点の一つがある。
洋式船の修繕設備が発見されるかもしれないーーー。
しかし、船はないはずだし。長曽我部氏には船を操る腕はないはずだし。
それにしても、四国のずっと西の端の話である。
土佐はまだ、内政安定に時間がかかるだろう。
一条の御所には、昔、お目通りを願ったことがある。
その頃は、一条家の権威が揺らぐ、などというようなことは、全く考えられなかった。
一条家に恩義を感じる者はまだまだ多いはず。
何故に長宗我部元親のような、情味のない粗暴な奴に、
失墜させられねばならないのだ。
そういう思いが、友光に、土佐不安定という漠然とした予想しか抱かせなかった。
土佐からやってくる情報もまた、友光の思いを支持するものばかりだった。
「一条氏はなお、多くの支持者を持っていて、土佐の安定は容易ではありません。」
海部城の面々は、しかし、情報が撹乱されていることに気が付かなかった。
まさか、息子の吉清が兵を率いて不在の間に、長宗我部氏が海部に急襲してくるなんて。
そして一条氏の水軍が、長宗我部氏の軍と名を変えて、
ここを狙ってくるなんて。そんなことは考えもしなかった。
しかし、長宗我部氏の内々の工作は、事が起きる前に進んでいた。
長宗我部氏が四万十川の戦いで勝利した報は、
一条氏の勢力内での内部工作を有利にし、海部での内部工作をも有利にした。
また、一条氏の本拠地では、兵によって徹底的な捜索が行われ、
莫大な財宝が見つかった。
一条氏は、自分の血筋に対する住民の尊崇を信じ、
温厚な政治に対する住民の信頼を信じて、警戒の念が薄すぎたのだ。
見つかった財宝は、潔く兵にばら撒かれ、敵の攻略に使われた。
今、この日の出の勢いの長宗我部に付かないでどうする。
長宗我部は、お前たちに高い給付と地位を約束する。
長宗我部は四国全域を狙う覇王だぞ。
海部なんぞに忠誠を誓ってモゾモゾしているなんて、
こんなつまらないことはない。
今こそ長宗我部に付いて、一働きするべきだ。
どうだ、これは。
見せられた物は、見たこともない金銀だった。
一生お目にかかれるかどうか、わからないような物を見せられて、下級兵の心は揺らいだ。
聞いた以上は寝返ってもらわねばならない。
さもなくば、この場で、と脅される。
海部のお偉方さえ無事に何とかなるなら、行動を共にした方が、
運が上向くのではないかという気がするのだ。
一条氏の内部工作に使われた文句が、そのまま海部内部でも繰り返された。
下級兵士は、見たこともないような金銀を目の当たりにして、
身分の上昇や報償への願望、そして全く違う別の秩序の構築という話に、心を動かされた。
1575年6月には、遠い三河の長篠で、
信長が大量の鉄砲を使って武田勝頼を破っていた。(長篠の戦い)
日本中を、異変が底のほうから混ぜっ返すような、ざわざわとした空気に満ちていた。
太平洋側でも、下克上に勢いが付いたようだった。
守旧は悪しきもの、新しい動きに乗るべし。人が動意付いた。
1575年末。
長宗我部氏が水軍を組んでやって来た時、洋式帆船を残して、
海部衆の最精鋭は、讃岐へ出動中だった。
スペインとの約束で、国内の戦闘では、洋式帆船は使わないことになっていたのだ。
残った現場に近い中核層が寝返って、長宗我部氏を迎えた。
内部の寝返りと知って、城を守っていた友光は驚愕した。
一条氏なお強力という情報は、敵が流した虚報だった。
さらには、元親の「土佐の国以外への野望」という情報が、皆無だった。
元親が土佐以外の制覇まで考えるとは、友光も思いが及ばなかった。
それも、伊予へ向かったのならわかるが、逆方向の海部へ来るとは。
友光自身は、自分の領地や他人の領地を大事に考えているのだ。
だから、他国の他人の領地を略取しようなんて、
土佐の西の端を侵攻したばかりの男が考えるなんて、思いもよらなかった。
幕府の権威がまだ多少あったころは、少なくとも近畿では、
自己都合での武力や策謀による略取なんか、許されるものではなかった。
上意による裁定で歯止めが効いていて、それなりの正義?があったのだ。
三好長慶が生きていれば、こんなことにはならなかっただろう。
我々も戦ったが、自分の領土を拡張するためではなかった。
阿波の領主たちは、各々の安定のために戦ったのだと思う。
しかし今日、武力や策謀で他人から分捕るのが、当世流になってしまったのだ。
土佐で、長宗我部元親が、それを真似するとは思わなかった。
那佐湾で死んだ侵入者は自分の弟だった、などと、口実を作ったようだが、
真実など、今日、誰でも、どうでもいいらしい。
嘘らしく見えても、それに対して、疑問を唱える者もいない。
四万十川の戦いから、まだ数ヶ月だ。
水軍がない長宗我部氏だったはずなのに、
一条氏の水軍が長宗我部氏を支えているようだ。
長宗我部氏の放った密偵は、四国各地で活動し続け、
元親の手元には、刻々と情勢が集まっていた。
元親が四万十川の戦いで一条氏を破った頃、海部衆の讃岐への出陣が聞こえてきた。
多くの兵がいなくなったのは、海部にもぐりこんだ密偵にも把握できたのだ。
しかしそれ以上に重大で驚くような話が、寝返った元一条氏の水軍の中から洩れて来た。
この地に毎年のようにスペイン船が来る。
それは元々は、海部衆がスペインに加勢して開拓したルートである。
海部が空同然なら、今はチャンスである。
元親は思った。土佐内の情勢は未だ予断を許さない。
しかしここは、このチャンスを逃す手はない。
海部攻略の成功が、今後の領内の安定を生み出すと考えた方がいい。
一条氏に心を残す連中を黙らせるためにも、海部攻略は成功させるぞ。
水軍が動かせるなら、成功率は高い。
海部氏の縁者となるべき畿内勢力は、長い相互の争いでバラバラだった。
皆が自分の周辺の守備に躍起であって、安全と見えた海部など、
誰も省みる余裕がなかった。
『土佐物語』など既成の文献では、長宗我部氏が陸路で野根山を超えたことになっている。
1467年の応仁の乱発生以後に、太平洋側海運勢力の間で急速に整備され、
すでに百年以上の歴史のある南海路を、
長宗我部氏は「使わなかった」、
などと言うのも、江戸期密貿易の発覚を危惧しての、情報操作の結果であろう。
野根山越えは、時間も必要なら、食糧その他の兵站も多大であって、
真面目に考えるなら、非常に不可解な作戦である。
司馬遼太郎氏も、長宗我部元親を主人公にした小説『夏草の賦』で、
野根山越えについて書いているからには、一度は車で走ってみたに違いない。
でも、変だと思うほどには、それに反対するネタが存在せず、
皆が間違いない、と、言うのだから、と、野根山越え説のままにした、ようだ。
私も車で野根山越えをしたことがある。
南海路が1468年から活発化していることを知っていると、
長宗我部氏の野根山越えは、とんでもない嘘に見える。
物語作家や小説家は、自分に便宜を図ってくれる人寄りになりがちだ。
面白ければ良い、という事に流れる。そこで真実が消されるのだ。
友光が注進を受けた時、すでに宍喰・那佐・浅川の港には長宗我部軍が入り、
寝返った海部衆の若手とともに、決意も新たに意気投合していたのだった。
海部水軍の地元管理者・田中正二郎が、城の手代に申し入れてきた。
殿と重臣には城から退去してもらいたい。
これを聞いて、城内では怒りが渦巻いた。
何ということだ。これまでの恩顧を忘れたか。
海部水軍にスペインの技術を取り入れて、
ここまで進取の軍に育てたのは、この友光様である。
スペインとの交易で多大の利益を享受できるようになったのは、
この友光様のおかげである。
お前たちを育てたのは、この老臣たちである。
そんなことはわかっている。だから退去していただきたいと申している。
長宗我部軍が言葉を添えた。
もはや時は統一の時代である。
長宗我部としては、何としても海部水軍をいただかねばならない。
我々としては、水軍をいただくことさえできれば、皆様方のお命は確約いたす。
どうかご退去を。
水軍をいただくとは、また不思議な言葉だった。水軍は出払って不在である。
また、田中正二郎以下、まだ水軍をあやつるほどの能力がないのは明らかだった。
何のことはない。友光以下、重臣、親族ともども、人質になってしまったのだった。
讃岐で連絡を受けた吉清以下海部水軍は、出兵のいきさつからして乗り気でなかった所、
すっかり意気阻喪してしまった。
親父殿や女房・子供はどうした。人質か。生きているのだな。で、どうしろと言うのだ。
長宗我部軍に加わって働け?馬鹿なことを。
しかし、彼らが必要なのは海部水軍なのだ。
水軍自体は、長宗我部氏の厚遇を得られれば、生きる術もあるだろう。
しかし私は御免蒙る。親父殿も同じだろう。
水軍は差し向けるが、親父殿や妻や子の開放が条件だ。。
海部水軍は親父殿が育てた宝物。水軍は水軍として活動するべきだ。
ウルダネータに直接操船を教えてもらい、島弥九郎の侵入を発見した吉三は、
士分に取り立てられ、谷岡政之助と名を変えて、35歳になっていた。
太平洋を5周し、日本各地の海を見、海部衆の精鋭として、水夫たちの若手棟梁として、
いまや全員を率いる立場になっていた。
彼も、その他の水夫たちも、妻や子を海部に残してきていた。
水軍が欲しいという長宗我部氏の前では、水夫の親や妻子は、要するに人質である。
甚だおもしろくない。しかし自分たちが帰ることが、殿の家族の安全の条件でもある。
こうして一人の死者も出さずに海部城は落ち、長宗我部氏は海部水軍を配下に置いた。
そして海部氏の一家は、ふっつりとその足跡を絶った。