小説スペイン太平洋航路

20、秘密の軍港・那佐湾                   トップに戻る


             (那佐湾:昔は道のない湾だった。今は山を切り通し、中を国道が貫通している。
              奥行き3.6㎞、幅は狭いところで200メートル。)

1445年の『兵庫北関入船納帳』にも見られるように、木材は海部の重要産品だった。
その木材の唯一の搬出路が海部川、そして、大型の運搬船が待機するのが那佐湾だった。


江戸時代の話がある。

木材は、筏(いかだ)に組んだり放流したりで、下流に運ばれる。
それらはすべて、河口近くの平地、城山のふもとの、奥浦の赤松に集められる。
一方、太平洋を渡る大型廻送船は、那佐の港で風待ちをしているのである。

商談がまとまると、船は那佐の港から鞆の港に廻送され、海部川の川口と小島との海で、いよいよ積荷が始まる。
待機していた沖高瀬船の出番である。

大きな木材は筏(いかだ)に組んで曳(ひ)き、小さい木材や薪材は、積み込んで親船に運ぶ。
アリの群れが物を運ぶように、何十隻というおびただしい沖高瀬が、木場と親船の間を、終日往復して積荷は終わる。

それから出帆である。十六反の帆を揚げて。

   那佐(なさ)の湊(みなと)は 入りよて出よて 情け名残りの ない湊

文化十年(1813年)調べの 
「海部郡 鞆浦棟附 御清帳ニ付 大阪廻船 漁船 持之者共 相調へ差上帳」によれば、

    大阪廻船:361石積、209石積、355石積など、29艘。
    漁船:90艘。沖高瀬:20艘。

このように、海部の船の状況は、今日からは想像もできないほど、廻船に重要な役割があり、
その船の主な目的地は、大阪ということになっていた。      (参:昭和46年『海部町史』p180)

現在は、湾内を国道が貫通していて、船に頼ったこのような江戸時代の様子は、偲ぶよすがもない。

しかしこれとて江戸時代の話である。戦国時代には、このようなのどかな雰囲気ではなかった。

戦国時代の那佐湾は、住民はほとんど入れない、極秘の港湾だった。

外から那佐湾に入る道は細く、厳重に管理されていた。
そして、複雑に曲がりくねって上下し、1年中、木々や灌木の繁茂する南国の道の、
その見通しは容易ではなかった。

おまけに、崖にぶつかったり、消えたりする。
そのために、道を知る者でも、うっかりすると踏み迷う。

湾内の道も、かろうじて人が踏みつけて作った道はあるが、
複雑怪奇に罠が作られていて、極めて危険であり、
道を知らない者が、陸の道を使うのは、ほとんど不可能だった。

湾内各所を往来するには、船で行き来するしかない。

奥行き3600メートル、幅は狭いところで200メートルという、非常に細長い湾だった。

堺から人が来ても、乗っている人や荷物は皆、集落に近い鞆の港の脇で、
乗り換えたり、積み替えたりする。決して那佐湾へは行かない。
緊急で那佐湾に入っても、決して外は見られない。

仮に那佐湾に入ることができる人がいたとしたら、
それは誰にでも認められる、認可状の持ち主だった。

水夫以外、認可状所持者以外の一般の者は、誰一人、那佐湾には入れない。

こうして那佐湾は、海部水軍の軍港として、厳重な秘密のベールに包まれていた。

海部友光は、この湾なら、太平洋横断船を建造するのに好都合だと、確信を持っていた。