小説スペイン太平洋航路

4、東アジアの海上交易
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 【瀬戸内海の対立

「応仁の乱」。事の始まりは、室町幕府8代将軍・足利義政の、跡継ぎをめぐる対立だった。

細川氏と山名氏の争いに、全国の守護大名が二派に分かれて戦った。
それが1467年から、京都を中心に11年も続いた。

都は焼け野原となり、将軍の権威も衰えてしまった。

この乱が始まった翌年の1468年、瀬戸内海の情勢に影響したのは、
堺商人と結んだ細川氏」と、「博多商人と結んだ大内氏」の勢力争いである。
            
 【遣明船貿易

遣明船貿易というのは、中国・明が始めた貿易体制である。

1368年、「元」が滅亡して「明」が成立した。
明は建国当初から、国家の公的使節の入出国・貿易しか認めなかった。       

そこでは、明の皇帝を君、諸国の王を臣とする、という主従関係を、相互に承認する。(冊封)
その関係に基づいて、「諸国の王が貢ぎ物をささげ行き、皇帝がそのお返しをする」という形で交易する。 

国内の反体制派が外国勢(倭寇だと言う)と結びつくと、
安定運営に支障が出る、という心配からだったという。
     
人民の海外渡航や交易は禁止された。規制も罰則も、次第に厳しくなった。(海禁)
人民は自由に行動させず、国家間貿易を国が管理したのだ。

管理に使われたのが、正規の貿易相手であることを証明するための、勘合だった。(勘合)
                     (「冊封」「海禁」「勘合」による、国家主導の貿易の管理政策)

【琉球船】

この中国中心の国家間貿易の体制の中で、極めて優遇されたのが琉球だった。

中国としては、この冊封の形式を守りつつ、なおも貿易品を確保する必要があった。
そこに、琉球に、大きな役割を与える必要があったのである。

琉球には抜群に多い朝貢回数が認められた。(171回・日本は19回)
朝貢貿易用の海船を与え、江南人を送り込んで、外交・貿易のやり方を教えた。
 
こうして琉球は、東アジアでの広範囲な交易ルートのかなめとなった。
その訪問先は、ベトナム・タイ・マレーシア・スマトラ島・ジャワ島、等々。
琉球は、中継貿易によって、未曾有の繁栄を謳歌したのである。

    (参:村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書・1997)
 
琉球船はまた、日本へも再々やって来た。1403年から1466年まで、約60年の間に、少なくとも15回は来航が確認できる。
            (参:吉田豊「中世堺の琉球貿易」堺市博物館報25号・2006より「応仁の乱以前の琉球貿易」

しかし1467年の応仁の乱以降は、堺商人の琉球渡航が増加した。(1471年の史料あり・多分、堺市博物館報)

これは琉球船が応仁の乱を疎んじたとも言えるし、南海路を知った堺商人の方が、
情勢からの利便によって、その南下ルートを採用した、とも言えるだろう。

しかしながら、琉球の繁栄を曇らせる事件が、1474年に発生した。
福州で、琉球国使臣が、殺人・放火に及んだのである。翌年、明は、朝貢回数を2年1貢に減らした。

この制裁は、実に30年に及び、1年1貢に戻ったのは1507年だった。
その間に、中国の密貿易商が、東南アジアと中国を直結する交易ルートを開発し、
琉球の覇権は揺らいだ。        (参:村井章介『海から見た戦国日本』ちくま新書p79)

そして、朝貢数回復のわずか4年後、1511年に、ポルトガル海軍が南海交易の重要な拠点マラッカを陥落させる。

ポルトガルは中国沿海の密貿易ルートに沿って進出し、琉球の活躍の場は、いよいよ狭くなった。

このように、東アジア海域では活発な交易ルートがあった所へ、
いよいよ、ポルトガルとスペインという、西洋の勢力が進出してくるのである。

問題は、明の制裁30年という長い間に、琉球がどのようにして生き残りを図ったか、である。
ひょっとしたら、日本人を東南アジアに誘導していた、というようなことはありはしないか。

ここに、マラッカ陥落前から、刀剣を実演販売?する「ゴーレス」として、日本人が、
はるか南の東南アジアに、登場していたのではないか、という推測が成り立つのである。


1368年   中国、元滅亡、明成立。
1467年  応仁の乱
1468年  遣明船、南海路によって帰還
1471年  堺商人琉球渡航増加の史料 
1474年 福州での琉球使臣による殺人放火事件 
1475年  中国の制裁。琉球の朝貢数削減
1507年  明の制裁解除
 1511年  ポルトガルがマラッカを陥落させる