小説スペイン太平洋航路
10、1542年、第4回・ビリャロボス艦隊
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(参:伊東章『マニラ航路のガレオン船』鳥影社・詳細)
上掲書は非常に読みにくいので、私が「年表」を付け、
文章をわかりやすく書き直しました。
鳥影社には届けてあります。
*以下、()内の数字は、伊東章『マニラ航路のガレオン船』の該当ページ
スペイン艦隊では、
船舶、装具、大砲、弾薬、武器、糧食その他の量が数え上げられた。
商品や交換用品が各船に配分され、無秩序な取引をしないように管理人が置かれた。
各隊の隊長、兵隊、水夫など、同乗の要員の、
名前、姓名、出身地、それぞれ携帯する武器、が記帳された。
1542年10月22日、ビリャロボスは、船隊と兵士の指揮権を受け取り、
居並ぶ人々の前で、義務を全うする旨の宣誓をした。
さらに役人、隊長、兵士、航海士、管理人、副管理人、水夫、砲手、その他乗組員の宣誓が続いた。
諸隊長への指示書には、禁止事項違反への処罰規定、規律規定、上陸時の行動の規定、
などがきめ細かく盛り込まれていた。
1542年11月1日、ビリャロボス艦隊はメキシコのラ・ナヴィダァ港から出発。 (p46)
帆船4隻。(旗艦サンティアゴ号、サン・ホルヘ号、サン・アントニオ号、サン・ファン・デ・レトラン号)
小型ガレー船1隻(サン・クリストバル号)
フスタ船(サン・マルティン号) (p42)
地図画像:フィリピンとモルッカ諸島
フィリピン地図 拡大クリック→
同艦隊は1543年2月2日にミンダナオに達した。 (p47・p49)
サマール島とレイテ島を、
時のスペイン皇太子フェリぺに因んで「フィリピナス」と命名した。
4月2日、サランガン島で戦闘を起こしてしまい、島民がいなくなって、島で飢餓に陥った。(p47~)
飢え、毒草、食中毒、壊血病、で死亡多数。11月の第1週までこの島に滞在。
糧食を求めに出て、住民の裏切りにあって死傷者を出し、
報復に出たら毒矢で死亡者を出し、
救援に出したサン・ホルヘ号が転覆して、大砲その他を失う。
10月末には嵐にも見舞われ、修繕中のサン・アントニオ号とフスタ船が横転。
8月26日にラ・トーレ率いるサン・ファン・デ・レトラン号をメキシコへと派遣したが、 (p49)
10月20日過ぎに逆戻りしてきた。(この時に沖の鳥島・硫黄島等を発見) (p50・p58)
1511 年 | ポルトガル、マラッカを陥落させる。 |
1513年 | ポルトガル、中国のマカオに達す。通商拒否される。 |
1521年 | 第1回・マゼラン艦隊(スペイン発) |
1525年 | 第2回・ロアイサ艦隊(スペイン発) |
1527年 | 第3回・サーベドラ艦隊(メキシコ発) |
1540年 | 中国人密貿易商あらわる。ここでポルトガルの東方進出実現。 |
1542年 | 11月1日、第4回ビリャロボス艦隊、メキシコのラ・ナヴィダァ港から出発。 |
1543年 | 2月2日にミンダナオに達した。 |
4月2日、サランガン島で戦闘。島で飢餓に。11月の第1週までこの島に滞在。 | |
8月(旧暦)種子島鉄砲伝来 | |
8月26日にラ・トーレ率いるサン・ファン・デ・レトラン号をメキシコへと派遣。 が、10月20日過ぎに逆戻りしてきた。(この時に沖の鳥島・硫黄島等を発見) |
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8月29日、ポルトガル人がやってきて、ビリャロボスに 隊長カストロの書簡と勧告を手渡す。 (日付は 約1ヶ月前の7月20日 ) |
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9月2日、再度カストロの勧告。 | |
10月20日、レトラン号、逆戻り。 その後、ハルマヘラ島へ行くことにする。 |
ポルトガル人との対立
サン・ファン・デ・レトラン号がメキシコ帰還路探索に出た3日後、
ポルトガル人がやってきて、ビリャロボスに書簡と勧告を手渡す。 (p50~)
4月の戦闘や、その後の糧食確保の活動で住民と戦闘が発生したことで、
ポルトガル人にもスペイン船の所在が知れたらしい。
この時手渡されたポルトガルの「勧告と抗議」は約1ヶ月前の7月20日のもので、
署名は「テルナテ砦・モルッカ諸島・バンダ島・ボルネオ島・ミンダナオ島の隊長、カストロ」
となっていた。
「この土地はすべてポルトガル国王のものである。
退去するなら守ってやるから、住民と戦をしないように。
航路をはずれ糧食が不足しているなら、ミンダナオ島で供給させよう」
これに対しビリャロボスは
「ここはスペイン国王のものである。
住民の被害も、原因は住民にある。破壊などしていない」と拒絶。
すると9月2日付けで、再度カストロの勧告が来た。 (p52~)
「ここは私が平和に統治している。
お前たちが、ここがポルトガルのものと承知の上で探索しているのは明白だ。
住民の被害を否定しないで、逆に白状している。
退去するなら必要品を供与するし、船の修理も助けよう」
これに対し、9月12日付けでビリャロボスは回答した。
「通商や通過は統治ではない。
ポルトガルのもの、などとは決まっていない。
国王同士は兄弟だ。両君主が処理するように処理されるだろう。
別途に指令がない以上、相互に一線を画するだけだ」
フィリピン海域
実際のところ、ポルトガルはすでに1513年に中国のマカオに到達していた。
とっくの昔に、フィリピンよりも北上していたのだった。
しかしマラッカでの行為が災いして、中国との通商ができないままでいた。
この段階でポルトガルが接触できた東方勢力は、東南アジアへ出て来ていた琉球
という可能性もあるが、それはわからない。
そこへ、1540年になって、中国人密貿易商が現れて、ポルトガル人を誘った。
ここでやっと、ポルトガル人の東方進出が実現したのだった。
*村井章介『海から見た戦国日本』p112
フィリピンや琉球や日本は、いかなる事情で進出が遅れたのか、そこのところは不明。
しかしフィリピンでは、すでにポルトガルと住民との接触があったことが、このやり取りでわかる。
そもそも、ロアイサ隊やサーベドラ隊が、フィリピンを目指してやってきて、
投降せざるを得ず、ポルトガル領経由で帰還したのだ。
またマゼラン艦隊が、毎年フィリピンにやってくる琉球の船らしきものを確認している。
つまりフィリピンには、1543年当時、
すでに「ポルトガル」や「琉球」、さらにはゴーレスと呼ばれた琉球人とまぎらわしい「日本人」、
そして「中国人」密貿易商も、来ていた可能性がある。
ビリャロボス艦隊は、そういう所へやってきていたのだった。
ハルマヘラ島とティドーレ島 地図画像:インドネシア地図 拡大クリック→
ハルマヘラ・テレナテ・ティドーレ(グーグルアース)
(地図で見ると、モルッカ諸島の話である)
新たに建造した2隻の船も投入して食糧確保に出る内に、ハルマヘラ島の王と交渉成立。 (p54)
(フィリピンからはかなり南)
*航海途中での新造船
ロビンソン・クルーソーが、漂着した自船から持ち出すことができた品々の中に、
大工道具があった。子供の頃、これが不思議だった。どうして?と思ったのだ。
しかし、船の修理や新建造など、長い航海には、大工道具や船大工は、
どうしても必要なものだったらしい。)
そこへ、ロアイサ艦隊でやってきて、それまでテレナテ島でポルトガル人と暮らしていた、
スペイン人ペドロ・デ・ラモスが加わってきた。
ハルマヘラ島は貧しかった。
そこで、マゼラン死後の艦隊が友好を結んだティドーレ島へ、移動をもくろむ。 (p55)
ビリャロボスがティドーレ島を視察すると、テレナテ島のポルトガル人をいたく刺激した。
(地図で見ると、非常に接近している)
ビリャロボス艦隊の方が、ポルトガルのテレナテ守備隊より多かったのだ!
(すると、以前のカストロの勧告は、相当なハッタリだった、とわかるし、
ビリャロボスの目は確かだったと言える。ラモス情報か。)
ティドーレの王が、フィリピナスではぐれた僚船の捜索に協力を申し出てくれ、
1544年5月28日、捜索開始。10月17日に終了。 (p56・57)
はぐれていたサンティステバン神父、エスカランテ、ラ・トーレも、
この時に合流できたものらしい。
1543年10月20日から、1544年5月までの間に |
2隻の船を新たに建造。 ハルマヘラ島の王と交渉成立。 |
ロアイサ艦隊できて、それまでテレナテ島で、 ポルトガル人と暮らしていた、スペイン人ペドロ・デ・ラモスが加わる。 |
ハルマヘラ島、貧しかったので、 マゼラン死後の艦隊が友好を結んだティドーレ島へ、移動をもくろむ。 |
1544年5月28日から10月17日まで。 |
ティドーレの王の協力で、フィリピナスではぐれた僚船の捜索。 |
1545年5月16日 サン・ファン・デ・レトラン号、再度メキシコ帰還路発見に向かう。 |
以後「ハルマヘラ島」対「テレナテ島」の現地住民の争いに巻き込まれる。 その途中で、ポルトガル隊長から、 日本へ行ってきたという商人ペロディエスを紹介される。 |
ポルトガル人隊長交代
1545年5月16日、サン・ファン・デ・レトラン号、再度メキシコ帰還路発見に向かう。 (p58)
その背景には、テレナテ島のポルトガル人隊長が、カストロからフレテスに交代し、微妙な休戦関係になったこともある。
ポルトガル隊長フレテスには、サン・ファン・デ・レトラン号の艤装にも融通してもらえたし、
ハルマヘラ島の王との戦いに、支援を要請されるほどだった。
(「テレナテ・ポルトガル・スペイン・連合軍」 対 「ハルマヘラ島」の構想)
しかし、ハルマヘラ島は、先に世話になった所。その王には義理があるので、断っている。
ポルトガル側には、あと二ヶ月でインドからの増派が到着する予定だった。
ハルマヘラ島の王からは、ハルマヘラ島と、ティドーレ島の王と、ビリャロボス艦隊と、
この三者が連合するように、と、求められた。
(「ハルマヘラ島・ティドーレ島・スペイン・連合軍」 対 「テレナテ・ポルトガル連合軍」の構想)
両陣営が、スペイン艦隊を自分の陣営に引き込もうと、躍起なのである。
この動きについて、連絡を受けたフレテスが、ティドーレへやってきた。
ビリャロボスはティドーレの王と一緒に、フレテスと会見したが、言葉を濁すしかない。
この時のフレテスとビリャロボスのやり取りを見ていて、
ティドーレの王は、この二人は、どうも相通じるところがあるようだと感じたらしい。
そこでビリャロボスは、そのような心配はない、と宣誓しなければならなかった。
日本から来たスペイン人
しかし実はビリャロボスは、フレテスから、
「今、テレナテ島に、日本から来たと言う商人がいる。
いろいろ興味深い話を聞かせてもらった。
彼が話がしたいと言っている。
スペイン艦隊の話を聞きたいと言っているが、
会ってみるか?」と言われたのだった。
「ポルトガル人は数年前に初めて日本へ行ったんだが、
その男はその後、中国船で日本を訪ねて、いろいろ見聞きしたらしい」
ポルトガル人フレテスが、スペイン人にこんな便宜を図るはずはない。
フレテスが何か相当な賄賂をつかまされた、ような気がして、ビリャロボスも重大さを感じた。
「ほうお。それはおもしろい。是非会って話がしたいものだ」
表向きは敵対関係にある両陣営である。
念のために手紙をやり取りした上で、やがて男がやってきた。ペロ・ディエスと名乗った。
(p78)
その男が言うには、去年(1544年)日本に行って、
通商の準備のためにいろいろと段取りを整えていたのだそうだ。
しかしこちらがスペイン人だとわかると、
日本人の方がとても自分に興味を持ってきたのだと言う。
それに続くペロ・ディエスの話は、驚きの連続だった。
ビリャロボスは、愕然としながらペロ・ディエスの話に耳を傾けた。
それは全く、考えたこともない話の展開だったからだ。
そしてそれからその話が、ビリャロボスの頭から離れなくなってしまった。
この話は、ポルトガル人には、絶対に知られてはならない。