27、その後 (20210906)
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1585年、蜂須賀家政が阿波国へ入封する。
したがって海部は、1575年から1585年まで、長曾我部元親の支配下にあったことになる。
この10年間のことは、全く不明である。しかし、スペイン船はやってきたはずだ。
そしてスペイン人は、海部氏がいなくなり、長曾我部氏が支配していることを知ったはずである。
1596年、漂着という口実で、長曾我部氏を尋ねて、
スペイン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸湾にやってきた。
しかし日本の国内事情の変化は、サン・フェリペ号に大きな災厄をもたらした。
(そもそも、他国の港に寄港する際は、
漂着という口実を使うように、という伝統的な指示があった。
本当に漂着かどうかは、時と場合による。)
以下、日本にやってきたスペイン船の例を挙げる。
1602年、土佐清水港、エスピリト・サント号(サント・スピリット号)
(参:松田毅一『慶長遣欧使節』
1609年、千葉御宿沖、サン・フランシスコ号(乗船者373人)
(参:日経新聞2008年9月22日・松田『慶長遣欧使節』)
外務省日本メキシコ交流400周年・ 千葉国際情報広場・日本メキシコ交流400周年)
(在メキシコ日本国大使館・日墨交流400周年)
1609年、豊後中津浦、サンタ・アナ号
(1609年は3隻の船団。もう1隻のサン・アントニオ号はそのままメキシコへ)
(参:松田『慶長遣欧使節』)
1616年、土佐清水港
(参:『高知県の歴史』山川出版社・2001・P194・P196)
土佐清水港は、かつて土佐一条氏の支配下にあった港。
ジョン万次郎(中浜万次郎)ゆかりの港でもある。
(一条氏は京都の公卿だったが、応仁の乱を避けて土佐中村にやってきた。
そして長曾我部氏に追われた。長曾我部氏はその後、海部を襲った。)
豊後は大友氏の支配下にあった所である。
豊後の臼杵は、イギリス人ウィリアム・アダムズたち(船はオランダ船)が漂着した。
大友氏の支配地に関しては、古代、豊後海部古墳が築かれた所でもある。
古代の海の関係者につながる土地柄である。
このように、土佐と豊後は、南海路の関係者のいた所である。
漂着とは言え、船の修繕や援護の頼めそうな所に入港しているようだ。
鎖国以降は、日本側では記録が消える。
しかしスペインの太平洋航路は、1821年のメキシコ独立の前頃まで、
続いたようだ。
スペインの太平洋航路が消えるのは、決して航路がなくなったから、ではない。
むしろ、イギリスのクック船長の探検を始めとして、アメリカの捕鯨船等が、
太平洋を自在に走り回るようになって、その特殊性が消えた、ということに過ぎない。
ジョン万次郎の航路に見る捕鯨船の活動範囲例(要地図拡大)
そしてフィリピンはスペインの支配下にあったが、メキシコは独立した。
つまり、スペイン太平洋航路という名前では呼べなくなった、ということでもある。
さて、フィリピンからメキシコまで、果たして日本に寄港することなく、
スペインは、そのガレオン船を運航できたものだろうか?
徳川幕府による鎖国政策で、開港は大罪となってしまったため、
極秘になって、記録がないだけのことではないだろうか。
本当は鎖国の間も、スペイン寄港の日本の港は、開いていたのではないだろうか。